91 歴代天皇
 
 91 後宇多ゴウダ天皇
 
 鎌倉中期の天皇。亀山天皇の第二皇子。名は世仁ヨヒト。大覚寺殿とも。伏見天皇に譲
位。後二条天皇・後醍醐天皇のとき院政。日記「後宇多天皇宸記」。
(在位1274〜1287)(1267〜1324)
 建治ケンジ 皇紀1935 AD1275
 弘安コウアン 皇紀1938 AD1278
 
〔神皇正統記〕 第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁ヨヒト、亀山の太子。御母皇
后藤原僖子キシ(後に京極キョウゴクノ院と申)、左大臣実雄サネオの女也。甲戌の年即位、乙亥
に改元。
 
 丙子の年、もろこしの宋幼帝徳祐トクイウ二年にあたる。ことし北狄ホクテキの種、蒙古おこ
りて元国といゝしが宋の国を滅す(金国キンコクおこりしより宋は東南の杭州コウシウにうつり
て百五十年になれり。蒙古おこりて、先金国をあはせ、のちに江をわたりて宋をせめし
が、ことしつゐにほろぼさる)。辛巳の年(弘安四年なり)蒙古の軍イクサおほく船をそろ
へて我国を侵す。筑紫にて大オホキに合戦あり。神明、威をあらはし形を現じてふせがれけ
り。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒ヘウタウ破滅しぬ。末世といへども神明
の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにてをしはかるべし。
 
 この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれましまして十余年ありき。後二
条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義イウギ門院かくれまして、御歎のあまりにや、
出家せさせ給。前大僧正禅助ゼンジョを御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂
せさせ給。めづらかにたうとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務ナカツカサの親王と
て王卿ワウケイの座につかせ御坐マシマす。只今の心地ぞしはべる。後二条かくれさせ給しの
ち、いとゞ世をいとはせたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平クワンペイの昔の御
跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。其後、後醍醐の御門立につきまし
まししかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりましましき。大方こ
の君は中古よりこなたにはありがたき御こととぞ申侍べき。文学の方も後三条の後には
かほどの御才聞えさせ給はざりしにや。
 
 寛平の御誡ギョカイには、帝皇テイワウの御学問は群書グンショ治要チエウなどにてたりぬべし。雑
文ザフブンにつきて政事をさまたげ給ふなと見えたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の
御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明アキラカにましまししかば、先サキノ二
代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はね
ば、政道セウタウもあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理コトワリなり。尚書に尭・
舜・禹の徳をほむるには「古に若稽シタガヒカンガフ。」と云、伝説フエツが殷高宗ををしへたる
には「事古を師とせずして、世にながきことは説エツがきかざる所なり。」とあり。唐に
仇士良キウシリャウとて、近習キンジフの宦者クワンジャにて内権ナイケンをとる、極たる姦人カンジンなり。
其党類タウルイにをしへけるは「人主に書をみせたてまつるな。はかなきあそびたはぶれを
して御心をみだるべし。書をみて此道を知たまはば、我ともがらはうせぬべし。」と云
ける、今もありぬべきことにや。寛平の群書治要をさしての給ける、部ブせばきに似た
り。但此書は唐太宗、時の名臣魏徴ギチョウをしてえらばせられたり。五十巻の中に、あら
ゆる経ケイ・史・諸子までの名文をのせたり。全経の書・三史等をぞつねの人はまなぶる。此
書にのせたる諸子なむなどはみる者すくなし。ほとほと名をだにしらぬたぐひもあり。
まして万機をしらせ給はんに、これまでまなばせ給ことよしなかるべきにや。本経等を
ならはせましましそまではあるべからず。已に雑文とてあれば、経・史の御学問のうへに
此書を御覧じて諸子等の雑文までなくともの御心なり。寛平はことにひろくまなばせ給
ければにや、周易シウエキの古き道をも愛成チカナリと云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左
右サウあたはず。菅氏輔佐フサしたてまつられき。其後も紀納言キナフゴン・善相公ゼンショウコウ等の
名儒メイジュありしかば、文道のさかりなりしことも上古にをよべりき。此御誡につきて「
天子の御学問さまてなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上に
てよく料簡レウケンあるべきにをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余
年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後も懇
におこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀
・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・後深草・亀山にまします。醍
醐・一条は御病をもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を
具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありが
たき御ことなり。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元
享のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。
[次へ進んで下さい]