86a 歴代天皇
 
 88 後嵯峨ゴサガ天皇
 
 鎌倉中期の天皇。土御門天皇の皇子。名は邦仁クニヒト。後深草天皇に譲位後、院政。
(在位1242〜1246)(1220〜1272)
 寛元カンゲン 皇紀1903 AD1243
 
〔神皇正統記〕 第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁クニヒト、土御門第二の御
子。御母贈皇太后源通子ミチコ、贈左大臣通宗ミチムネの女、内大臣通親ミチチカの孫女なり。承久
のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方ミチカタは父の院
にも御傍親バウシン、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養シウヤウし申てかくしをきたてまつ
り。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼ブライになり給て、御
祖母承明ショウメイ門院になむうつろひましましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄
に晏駕アンカ、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけ
る。御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御子の外家グワイケにお
はせしかば、此御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれるにや、そ
のおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時ヤストキはからひ申てこの君をすへ
奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかく聞
えさせ給しかば、天照太神の冥慮ミャウリョに代カハリてはからひ申けるもことはりなり。
 
 大方泰時心たゞしく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことをお
もくし、本所ホンジョのわづらひをとゞめしかば、風の前にちりなくして、天の下すなはち
しづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として
久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。其主たりは頼朝すら二世をばすぎず。義時
いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなる
ことにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名ダイメイの下にほこる心やありけむ、中
二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をか
たくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高
タカキ官位をのぞむ者なかりき。其政次第のままにおとろへ、つゐに滅ぬるは天命のをはる
すがたなり。七代までたもてるところ彼が余勲ヨクンなれば、恨ところなしと云つべし。
 
 凡保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云人もなく、泰時といふものな
からましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、ゆへもな
く、皇威のおとろへ、武備のかちにけるとおもへるはあやまりなり。所々に申はべるこ
となれど、天アマツ日嗣は御譲にまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの
侍なり。神は人をやすくするを本誓ホンゼイとす。天下の万民は皆神物ジンモツなり。君尊く
ましませど、一人イチニンをたのしましめ万人をくるとむる事は、天もゆるさず神もさいは
ひせぬいはれなれば、政の可否にしたがひて御運の通塞トウソクあるべしとぞおぼえ侍る。
まして人臣としては、君をたうとび民をあはれみ、天にせくゞまり地にぬきあしし、日
月のてらすをあふぎても心の黒キタナクして光にあたらざんことをおぢ、雨露ウメツユのほどこ
すをみても身のただしからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。朝夕に長田
ナガタ・狭田サタの稲のたねをくふも皇恩也。昼夜に生井イクイ・栄井サクイの水のながれを飲も神
徳也。これを思もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私をさきとして公オホヤケ
をわするゝ心あるならば、世に久きことはりもはべらじ。いはむや国柄コクヘイをとる仁ジン
にあたり、兵権をあづかる人として、正路をふまざらんにをきて、いかで其運をまたく
すべき。泰時が昔を思には、よくまことある所ありけむかし。子孫はさほどの心あらじ
なれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、をよばずながら世をもかさねしにこ
そ。異朝のことは乱逆にして紀ノリなきためしおほければ、例とするにたらず。我国は神
明の誓いいちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪の報ムクイあきらかに、因果の
ことはりむなしからず。かつはとをからぬことどもなければ、近代の得失をみて将来の
鑑誡カンカイとせらるべきなり。
 
 抑此天皇正路にかへり、日嗣をうけ給し、さきだちてさまざま奇瑞ありき。又土御門
院阿波国にて告文カウモンをかゝせまして、石清水の八幡宮に啓白ケイビャクせさせ給ける、其
御本懐すゑとをりにしかば、さまざまの御願ゴグワンをはたされしもあはれなる御ことな
り。つゐに継体の主として此御すゑならぬはましまさず。壬寅の年即位、癸卯の春改元。
 御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくましまししかども
譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年
ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おま
しましき。
 
 89 後深草ゴフカクサ天皇
 
 鎌倉中期の天皇。後嵯峨天皇の皇子。名は久仁ヒサヒト。日記「後深草院宸記」。
(在位1246〜1259)(1243〜1304)
 宝治ホウジ 皇紀1907 AD1247
 建長ケンチョウ 皇紀1909 AD1249
 康元コウゲン 皇紀1916 AD1256
 正嘉ショウカ 皇紀1917 AD1257
 正元ショウゲン 皇紀1919 AD1259
 
〔神皇正統記〕 第八十八代、後深草院。諱は久仁ヒサヒト、後嵯峨第二の子。御母大宮院、
藤原の吉(女偏+吉)子キッシ、太政大臣実氏サネウヂの女也。丙午の年四歳にて即位、丁未
に改元。
 天下を治給こと十三年。后腹キサイバラの長子にてましまししかど、御病おはしましけれ
ば、同母の御弟恒仁ツネヒトノ親王を太子にたてて、譲国、尊号例のごとし。伏見の御代にぞ
しばらく政をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給。五十八歳おま
しましき。
 
 90 亀山カメヤマ天皇
 
 鎌倉中期の天皇。後嵯峨天皇の皇子。名は恒仁ツネヒト。蒙古襲来時の天皇。後宇多天皇
に譲位後1287年(弘安10)まで院政。
(在位1259〜1274)(1249〜1305)
 文応ブンオウ 皇紀1920 AD1260
 弘長コウチョウ 皇紀1921 AD1261
 文永ブンエイ 皇紀1924 AD1264
 
〔神皇正統記〕 第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁ツネヒト、後深草院同母の御
弟也。己未の年即位、庚申に改元。此天皇を継体とおぼしめしをきてけるにや、后腹に
皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひしまして、いつしか太子に立給ぬ。後深草ノ(其時
新院と申き)御子もさき立て生給しかどもひきこされましにき(太子は後宇多にましま
す。御年二歳。後深草の御子に伏見、御年四歳になりたまひける)。後嵯峨かくれさせ
給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀ボギ大宮院に
たづね申けるに、先院センインの御素意は当今タウギンにましますよしをおほせつかはされけれ
ば、ことさだまりて、禁中にて政務せさせ給。
 天下を治給こと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで
世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おましましき。
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