59 歴代天皇
 
 59 宇多ウダ天皇
 
 平安前期の天皇。光孝天皇の第七皇子。名は定省サダミ。菅原道真を挙用、藤原氏をお
さえて政治を刷新。897年(寛平9)譲位後、寛平法皇という。亭子院テイジノインのみかど。
「寛平遺誡」は皇子(醍醐天皇)のために記されたもの。
(在位887〜897)(867〜931)
 寛平カンピョウ 皇紀1549 AD 889
 
〔神皇正統記〕 第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省サダミ、光孝第三の子。
御母皇太后班子ハンシの女王、仲野親王(桓武の御子)の女也。元慶グワンギャウの比コロ、孫王
ソンワウにて源氏の姓シャウを給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、あ
る時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚センソの後、
彼社ヤシロの臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給ける故とぞ。仁和ニンワ三年丁未の
秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちををきて譲をうけ給。先マヅ親王とし、皇太子に
たち、即スナハチ受禅。同オナジキ年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政
大臣基経又関白せらる。此関白薨コウジてしばらくその人なし。
 天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。
 
 中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきと
ぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信ヤクシン僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又
智証大師の弟子増命ゾウミョウ僧正にも(于時トキニ法橋ホッケウ也。後諡オクリナして静観ジャウカンとい
ふ)比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今に
たえず、仁和寺に伝侍は是なり。をよそ弘法の流に広沢ヒロサハ(仁和寺)・小野(醍醐并勧
修寺クワンジュジ)の二フタツあり。広沢は法王の御弟子寛空クワングウ僧正、寛空の弟子寛朝
クワンデウ僧正(敦実アツミノ親王ノ子、法皇の御孫也)。寛朝広沢にすまれしかば、かの流とい
ふ。そののち代々の御室オムロ相伝てたゞ人ビトはあひまじはらず(法流をあづけられて師
範となることは両度あり。されど御室代々親王なり)。小野の流は益信の相弟子に聖宝
シャウボウ僧正とて知法チホフ無双ブサウの人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しか
れど年戒ネンカイおとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆シキシュにつらなりて歎徳タンドク
といふことをつとめられたりき。延喜の護持僧ゴヂソウにて、ことに崇重ソウチョウシ給き。其
弟子観賢クワンゲン僧正ももあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中カウチュウの法務を東
寺の一イチノ阿闍梨につけられしもこの時より始る(正シャウの法務はいつも東寺の一イチの長
者なり。諸寺になるはみな権ゴンノ法務なり。又仁和寺の御室、惣ソウの法務にて、綱所
カウショを召仕メシツカハるゝことは後白川以来の事歟カ)。此僧正は高野カウヤにまうでて大師入定
ニフヂャウの窟クツを開ヒラキて御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。其弟子淳祐ジュンイウ(石山
の内供ナイグと云)相伴はれけれどもつゐに見たてまつらず。師の僧正、その手をとりて
御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲
ゲンガウ僧都ソウヅに(延命院エンミャウインと云)許可コカばかりにて授職ジュシキをゆるさず。勅定
チョクヂャウによりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海ジンカイ僧
正又知法の人なりき。小野といふ所にすまれけるより小野流といふ。しかれば法皇は両
流の法主ホフシュにまします。
 
 王位をさりて釈門シャクモンに入ことは其例タメシおほし。かく法流の正統となり、しかも御
子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦
と申ならはしたれども、此御世こそ上代によれれば無為ブイの御政なりけむ、をしはから
れ侍る。菅氏の才名サイメイによりて、大納言大将まで登用し給しも此音時なり。又譲国
ジャウコクの時さまざまをしへ申されし、寛平の御誡ギョカイとて君臣あふぎて見たてまつるこ
ともあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜グシュンより始る。」と見えたり。唐尭
タウゲウのもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけると
ぞ。二代の明徳をもて此御ことをしはかり奉るべし。御寿イノチも長て朱雀の御代にぞかく
れさせ給ける。七十六歳おましましき。
 
 60 醍醐ダイゴ天皇
 
 平安前期の天皇。宇多天皇の第一皇子。名は敦仁アツギミ。後山科帝・小野帝とも。藤原
時平・菅原道真らの補佐の下に国を治め、後世延喜の治と称される。古今和歌集を勅撰。
(在位897〜930)(885〜930)
 昌泰ショウタイ 皇紀1558 AD 898
 延喜エンギ 皇紀1561 AD 901
 延長エンチョウ 皇紀1583 AD 923
 
〔神皇正統記〕 第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁アツヒト、宇多第一の子。御
母贈皇太后藤原の胤子タネコ、内題仁高藤タカフヂの女也。丁巳年即位、戊午に改元。大納言
左大将藤原時平トキヒラ、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅をうけて輔佐フサし申されき。後
に左右の大臣に任てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門御年十四にて位につき給。
おさなくましまししかど、聡明叡哲エイテツにきこえ給き。両大臣天下の政をせられしが、
右相は年もたけ才もかしこくて、天下ののぞむ所なり。左相は譜第フダイの器也ければす
てられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめあ
りて、すでに召仰たまひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけ
るにや、左相いきどをりをふくみ、さまざま讒ザンをまうけて、つゐにかたぶけたてまつ
りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝はべり。但菅氏権化の御事なれば、末
世マツセのためにやありけむ、はかりがたし。善相公ゼンシャウコウ清行キヨツラ朝臣はこの事いまだ
きざさざりしに、かねてさとりて菅氏に災ワザハヒをのがれ給べきよしを申けれど、さたな
くて此事出来イデキにき。
 
 さきにも申はべりし、我国には幼主の立給こと昔はなかりしこと也。貞観・元慶の二代
始て幼にて立玉ひしかば、忠仁公チュウジンコウ・昭宣公セウセンコウ摂政にて天下を治らる。此君ぞ
十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政をしらせましましける。猶御幼年の故
にや、左相の讒にもまよはせ給けむ。聖も賢も一失はあるべきにこそ。其趣経書ケイショに
見えたり。されば曽子ソウシは、「吾日に三たび吾身を省みる。」といふ。季文子キブンシは
「三思ミタビオモフ」とも云。聖徳のほまれましまさむにつけてもいよいよつゝしみまします
べきことなり。昔応神天皇も讒をきかせ給ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼は
よくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮をよびがたし。ほどなく神とあら
はれて、今にいたるまで霊験無双なり。末世の益ヤクをほどこさむためにや。讒を入し大
臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰をかふぶりにき。此君久く世をた
もたせ給て、徳政トクセイをこのみ行はせたまふこと上代にこえたり。天下泰平民間安穏に
て、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域イイキ尭舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜
七年丁卯年、もろこしの唐滅て梁と云国にうつりにけり。うたつゞき後唐コウタウ・晋・漢・周
となむ云五代ありき。
 
 此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おましましき。
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