56 歴代天皇
 
 58 光孝コウコウ天皇
 
 平安前期の天皇。仁明天皇の第四皇子。名は時康トキヤス。小松帝とも。
(在位884〜887)(830〜887)
 仁和ニンナ 皇紀1545 AD 885
 
〔神皇正統記〕 第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康トキヤス、小松コマツノ御門と
も申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子サハコ、贈太政大臣総嗣フサツグの女なり。陽
成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公セウセンコウもろもろの皇子の相ソウ申されけり。此天皇一
品イッポン式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましましけるに、俄に
まうでて見給ければ、人王の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀
衛ギエイをとゝのへむかへ申されけり。本位ホンイの服を着しながら鸞輿ランヨに駕して大内
ダイナイにいらせ給にき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。
 
 践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが、
宣帝の時政をかへして退シリゾキけるを、「万機の政猶霍光に関白アヅカリマウサしめよ。」とあ
りし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立給しかば御
志もふかゝりしにや、其子を殿上テンジャウにめし元服せしめ、御みづから位記イキをあそば
して正五位下になし給けりとぞ。久ヒサシク絶にける芹川の御幸ゴカウなどありて、ふるきあ
とをおこさるゝことども聞えき。
 天下を治給こと三年。五十七歳おましましき。
 
 大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今に至まで家々にあまたあり。かくしる
し侍もさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬ一ヒトはし
を申さむがためなり。我国は神国カミノクニなれば、天照太神の御計オンハカラヒにまかせられたる
にや。されど其中に御あやまりあれば、暦数レキスウもひさしからず。又つゐには正路シャウロ
にかへれど、一旦もしづませ給ためしもあり。これはみなみづからなさせ給御とがなり。
冥助ミャウジョのむなしきにあらず。仏も衆生をみちびきつくし、神も万姓バンセイをすなをな
らしめむとこそ給へど、衆生の果報しなじなに、うくる所の性シャウおなじからず。十善
ジフゼンの戒力カイリキにて天下とはなり給へども、代々の御行迹カウセキ、善悪又まちまちなり。
かゝれば本モトを本として正シャウにかへり、元ハジメをはじめとして邪をすてられんことぞ祖
神ソジンの御意ミココロにはかなはせ給べき。神武より景行まで十二代は御子孫其まゝつがせ
給へり。うたがはしからず。日本武の尊世をはやくしまししによりて、御弟成務陟ノボり
給しかど、日本武の御子にて仲哀ましましぬ。仲哀・応神の御後オンノチに仁徳つたへ給へり
し、武烈悪王にて日嗣たえましし時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ立給。こ
れなむめづらしきためしに侍る。されど二フタツをならべてあらそふ時にこそ傍正バウシャウの
疑もあれ、群臣皇胤なきことをうれへて求出モトメイダシ奉りしうへに、その御身賢ケンにして
天の命をうけ、人の望ノゾミにかなひましましければ、とかくの疑あるべからず。其後相
継て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱ミダレによりて、天武の御ながれ久ヒサシク伝
られしに、称徳女帝にて御嗣オンツギもなし。又政もみだりがはしく聞えしかば、たしかな
る御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給。これなむ又継体天皇の御こ
とに似たまへる。しかれども天智は正統にてましましき。第一の御子大友こそあやまて
り天下をえ給はざりはかど、第二の皇子にて施基シキのみこ御とがなし。其御子なれば、
此天皇の立給へること、正理シャウリにかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびに
て立給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりにしかど、陽成悪王にてしりぞけら
れ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましましければ、うたがひ
なき天命とこそ見え侍し。かやうにかたはらより出給こと是まで三代なり。人のなせる
こととは心えたてまつるまじきなり。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべ
きもの哉カ。
 
 光孝より上つかたは一向イッカウ上古シャウコなり。よろづの例タメシを勘カンガフルも仁和ニンワより
下つかたをぞ申める。古イニシヘすら猶かゝる理コトワリにて天位を嗣給。ましてすゑの世には
まさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことと心えたてまつるべきなり。
 この御代より藤氏の摂録(竹冠+録)セフロクの家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみ
ぞたゞしくつたへられにける。上カミは光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は
昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二フタハシニノ神の御ちかひたがはずして、
上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
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