46 歴代天皇
 
 46 孝謙コウケン天皇
 
 奈良後期の女帝。高野天皇とも。聖武天皇の第二皇女。母は光明皇后。名は阿倍アベ。
藤原仲麻呂・道鏡を重用。淳仁天皇に譲位。のち重祚して称徳天皇。
(在位749〜758)(718〜770)
 天平勝宝テンピョウショウホウ 皇紀1409 AD 749
 
〔神皇正統記〕 第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等
の大臣の女也。聖武の皇子安積アサカノ親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍この皇
女立給き。己丑ツチノトウシノ年即位、改元。平城ノ宮にまします。
 天下を治給こと十年。大炊オホヒの王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と
申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮ニシノミヤになむましましける。
 
 47 淳仁ジュンニン天皇
 
 奈良後期の天皇。舎人親王の第七王子。名は大炊オオイ。藤原仲麻呂に擁立されて即位。
のち仲麻呂失脚により廃位、淡路国に配流。淡路廃帝。
(在位758〜764)(733〜765)
 天平宝字テンピョウホウジ 皇紀1417 AD 757
 
〔神皇正統記〕 第四十七代、淡路アハヂノ廃帝ハイタイは一品舎人イッポントネリノ親王の子、天武
の御孫也。御母上総介カヅサノスケ当麻タヘマの老ヲキナが女なり。舎人親王は皇子の中に御身の才
サイもましけるにや、知太政官事チダジャウクワンジと云職をさづけられ、朝務を輔タスケ給けり。
日本紀もこの親王勅をうけ玉はツてえらび給。後に追号ありて尽敬ジンキャウ天皇と申。孝謙
天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、
年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌ツチノエイヌ年即位。
 天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。
 
 48 称徳ショウトク天皇
 
 奈良後期の天皇。孝謙天皇の重祚チョウソ。764年(天平宝字8)淳仁天皇廃位の後を受け
て即位。僧道鏡を信任して法王の位を授けた。
(在位764〜770)(718〜770)
 天平神護テンピョウジンゴ 皇紀1425 AD 765
 神護景雲ジンゴケイウン 皇紀1427 AD 767  
 
〔神皇正統記〕 第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚チョウソ也。庚戌カノエイヌノ年正月ムツキ一日
ツイタチ更に即位。同オナジキ七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿ムチマロの大臣の第二の子押
勝ヲシカツを幸カウし給。大師タイシ(其時太政大臣改て大師と云)正一位になる。見給へばえま
しきとて、藤原に二字をそへて藤原ノ恵美エミの姓シャウを給き。天下の政しかしながら委任
せられにけり。後に道鏡と云法師(弓削の氏人ウヂビト也)又寵幸チョウカウありしに、押勝い
かりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけむとせしに、ことあらはれて誅に
ふしぬ。帝ミカドも淡路にうつされ給て上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、
尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極キハミなりけむかし。唐の則天ソクテン皇后は太宗の女
御ヂョギョにて、才人サイジンといふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業
カンゲフと云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌イサメ申人おほかりしか
ども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗エイソウを立られしを、又しり
ぞけて、自ミヅカラ帝位につき、国を大周タイシウとあらたむ。唐の名をうしなはんと思給ける
にや。中宗・睿宗もわが生ウミ給しかども、すてて諸王とし、みづからの族ヤカラ武氏ブシのと
もがらをもちて、国を伝しめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者カンジャもあまた寵せら
れて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめ大臣に准じて(日本の
准大臣のはじめにや)大臣禅師ゼンジといひしを太政大臣になし給。それによりてつぎつ
ぎ納言ナフゴン・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世をこゝろのまゝにしければ、あ
らそふ人なかりしにや。大臣吉備の真備マキビの公、左中弁サチュウベン藤原の百川モモカハなどあ
りき。されど、ちからをよばざりけるにこそ。
 
 法師の官に任ずることは、もろこしより始て、僧正・僧統ソウトウなどいふ事のあのしを、
それすら出家の本意にはあらざるべし。いはむや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこ
そ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳エリンといひし人、政事マツリコトにまじらいし
を黒衣コクエノ宰相といひき(但これは官に任ニンズとは見えず)。梁の世に恵超エテウと云し
僧、学士ガクシの官になりき。北朝ノ魏の明元帝メンゲンテイの代に法果ハフクワと云僧、安城
アンジャウ公の爵シャクをたまはる。唐の世となりてはあまた聞えき。粛宗シュクソウの朝に道平
ダウヘイと云人、帝ミカドと心を一にして安禄山アンロクサンが乱をたひらげし故に、金吾キンゴ将軍
になされにけり。代宗ダイソウの時、天竺の不空三蔵フクウサンザウをたうとび給あまりにや、特
進試鴻臚卿トウシンシコウロケイをさづけらる。後に開府儀同三司粛国公カイフギドウサンシシュクコクコウとす。
帰寂キジャクありしかば司空シクウの官をおくらる(司空は大臣の官なり)。則天の朝よりこ
の女帝ニョタイの御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。
 天下を治給こと五年。五十七歳をましましき。
 
 天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤クワウインましまさず。此女帝にて
たえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師カウジになしてながしくだされにき。
抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしあり
けり。女帝さすが思わづらひ給けるにや、和気清丸ワケノキヨマロと云人を勅使にさして、宇佐
の八幡宮に申されける。大菩薩さまざま託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参キサンしてあ
りのまゝに奏聞ソウモンす。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土佐国にな
がしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇出来てそ
のきずをいやしけり。光仁クワウニン位につき給しかば、即スナハチめしかへさる。神威シンイをた
うとび申て、河内国に寺を立て、神願寺ジングワンジと云。後に高雄の山にうつし立。今の
神護寺ジンゴジこれなり。件クダリのころまでは神威もかくいちじるしきことなりき。かく
て道鏡つゐにのぞみをとげず、女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷シャショクをやすくするこ
と、八幡の冥慮ミャウリョたりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功な
りとぞ。
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