49 歴代天皇
 
 49 光仁コウニン天皇
 
 奈良後期の天皇。天智天皇の皇孫。施基シキ親王の第六王子。名は白壁シラカベ。藤原百川
らにより擁立され、和気清麻呂を召還して改革を行う。
(在位770〜781)(709〜781)
 宝亀ホウキ 皇紀1430 AD 770
 天応テンオウ 皇紀1441 AD 781
 
〔神皇正統記〕 第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基シキノ皇子の子、天智天皇の御
孫也(皇子は第三の御子なり。追号ありて田原タハラの天皇と申)。御母贈皇太后紀旅子
キノモロコ、贈太政大臣旅人モロヒトの女也。白壁シラカベの王と申き。天平年中に御門二十九にて
従四位下ゲに叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給き。称徳かくれ
まししかば、大臣以下イゲ皇胤の中をえらび申けるに、をのをの異議ありしかど、参議百
川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。
天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。
そのかみ逆臣を誅し、国家をも安ヤスクし給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正
タダシキにかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、すなわち受禅ジュゼン(御年六十
二)。ことし庚戌カノエイヌ年なり。十月カンナヅキに即位。十一月シモツキ改元。平城宮にましま
す。
 天下を治給こと十二年。七十三歳おましましき。
 
 50 桓武カンム天皇
 
 奈良後期〜平安初期の天皇。柏原天皇とも。光仁天皇の第二皇子。母は高野新笠。名
は山部ヤマノベ。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城
国宇太に遷した(平安京)。
(在位781〜806)(737〜806)
 延暦エンリャク 皇紀1442 AD 782
 
〔神皇正統記〕 第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁第一の子。御母皇太后高野の
新笠ニイカサ、贈太政大臣乙継オトツグの女也。光仁即位のはじめ井上イノヘの内親王(聖武の御
女)をもて皇后とす。彼所生カノショシャウの皇子沢良サハラの親王、太子に立給。しかるに百川
朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后
をよび太子をすてて、つゐに皇太子にすへたてまつりき。その時しばらく不許フキョなりけ
れば、四十日まで殿デンの前に立て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・
前サキ太子せめられてうせ給にき。怨霊をやすめられんためにや、太子はのちに追号あり
て崇道スダウ天皇と申。
 
 辛酉カノトトリの年即位。壬戌ミヅノエイヌに改元、はじめは平城にまします。山背ヤマシロの長岡
にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城ヘイアンジャウにうつさる。山背の国をもあ
らためて山城ヤマシロと云。永代エイタイにかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子蜂
岡ハチヲカにのぼり給て、(太秦ウヅマサこれなり)いまの城を見めぐらして、「四神シジン相応
の地也。百七十余年ありて都をうつされて、かはるまじき所なり。」とのたまひけりと
ぞ申伝たる。その年紀もたがはず、又数十代不易フエキの都と也ぬる、誠に王気ワウキ相応の
福地フクチたるにや。
 
 この天皇大オホキに仏法をあがめ給。延暦二十三年、伝教・弘法勅をうけて唐へわたり給。
其時すなはち唐朝へ使をつかはさる。大使は参議左大弁兼越前守エチゼンノカミ藤原葛野麿
カドノマロノ朝臣也。伝教は天台の道邃ダウスイ和尚ワシャウにあひ、その宗をきはめて同オナジキ二十
四年に大使と共に帰朝せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同年中に帰給。
 
 この御時東夷トウイ叛乱ホンランしければ、坂上サカノウヘの田村丸タムラマロを征東大将軍になしてつ
かはされしに、ことごとくたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇ブヨウ人にす
ぐれたりき。初は近衛コンエの将監シャウゲンになり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁の御時
にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文ブンをもかねたればにや、納言の官にものぼ
りにける。子孫はいまに文士ブンシにてぞつたはれる。
 
 天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おましましき。
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