41 歴代天皇
 
 41 持統ジトウ天皇
 
 7世紀末の女帝。天智天皇の第二皇女。天武天皇の皇后。名は高天原広野姫タカマノハラヒロノ
ヒメ、またウ野讃良ウノノサララ。天武天皇の没後、称制。草壁皇子没後、即位。皇居は大和国
の藤原宮。文武天皇に譲位後、太上天皇と称す。
(在位690〜697)(645〜702)
 皇紀1347 AD 687
 
〔神皇正統記〕 第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘ヲチノイラツメ、蘇我の山
田石川丸の大臣の女なり。天武天皇、太子にましまししより妃とし給。後に皇后とす。
皇子草壁クサカベわかくしましまししかば、皇后朝テウにのぞみ給。戊子ツチノエネノ年也。庚寅
カノエトラの春正月ムツキ一日ツイタチ即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立給
しが、世をはやくし給。よりて其御子軽カルの王を皇太子とす。文武にまします。前サキの
太子は後に追号ありて長岡ナガヲカノ天皇と申。
 
 此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上タイシャウ天皇と申き。太上天皇と云
ことは、異朝に、漢高祖の父を太公タイコウと云。尊号ありて太上皇タイシャウクワウと号す。其後
後魏コウギの顕祖ケンソ・唐高祖・玄宗・睿宗等也。本朝には昔は其例タメシなし。皇極天皇位をの
がれ給しも、皇祖母スメミオヤの尊と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おま
しましき。
 
 42 文武モンム天皇
 
 律令国家確立期の天皇。草壁皇子の第一王子。母は元明天皇。名は珂瑠カル。大宝律令
を制定。
(在位697〜707)(683〜707)
 皇紀1357 AD 697 
 大宝タイホウ 皇紀1361 AD 701
 慶雲ケイウン 皇紀1364 AD 704
 
〔神皇正統記〕 第四十二代、文武天皇は草壁の太子ノ第二の子、天武の嫡孫也。御母阿
閉アヘの皇女、天智ノ女也(後に元明天皇と申)。丁酉ヒノトトリノ年即位。猶藤原の宮にましま
す。
 
 此御時唐国タウコクの礼をうつして、宮室のつくり、文武官ブンブクワンの衣服の色までもさ
だめられき。又即位五年辛丑カノトウシより始て年号あり、大宝と云。これよりさきに、孝徳
の御代に大化・白雉、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀・朱鳥シュテウなんどいふ号ありし
かど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始とするなり。又
皇子を親王シンワウといふこと此御時にはじまる。又藤原の内大臣鎌足の子、不比等フヒトの大
臣執政の臣にて律令なむどをもえらびさだめられき。藤原の氏ウヂ、此大臣よりいよいよ
さかりになれり。四人の子おはしき。是を四門シモンといふ。一門は武智麿ムチマロの大臣の流
ナガレ、南家ナンケと云。二門は参議中衛チュウエノ大将房前フサマエの流、北家といふ。いまの執政
大臣をよびさるべき藤原の人々みなこのすゑなるべし。三門は式部卿宇合ウマカヒの流、式
家シキケといふ。四門は左京大夫麿ダイブマロの流、京家キョウケといひしがはやくたえにけり。
南家・式家も儒胤ジュインにていまに相続すといへども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将
人ヒトにことなる陰徳イントクこそおはしけめ。
 
 裏書ニ云。
 正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨ず。天平宝字四年八月太政大臣を贈らる。参議
正三位中衛大衆房前。天平九年四月薨ず。十月左大臣左大臣を贈らる。宝字四年八月太
政大臣を贈らる。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏す。帯ぶる所の大師之任を廻ら
して、南北の両大臣に譲らんと欲す。勅処分、請に依りて南卿藤原武智丸に太政大臣を
贈られ、北卿(贈左大臣房前)には転じて太政大臣を贈らる云々。
 
 又不比等の大臣は後に淡海公タンカイコウと申也。興福寺を建立す。此寺は大織冠の建立に
て山背ヤマシロの山階ヤマシナにありしを、このおとゞ平城ヘイゼイにうつされる。仍山階寺とも申
なり。後に玄方(日偏+方)ゲンボウといふ僧、唐へわたりて法相宗ホッサウシュウを伝て、此寺
にひろめられしより、氏神ウヂノカミ春日の明神も殊に此宗を擁護し給とぞ(春日神は天児
屋の神を本モトとす。本社は河内の平岡にます。春日にうつり給ことは神護景雲ジンゴケイウン
年中のこと也。しからば、此大臣以後のことなり。又春日第一の御殿ゴテン、常陸ヒタチノ鹿
島神、第二は下総の香取神、三は平岡、四は姫御神ヒメオンカミと申。しかれば藤氏トウジの氏
神は三サンノ御殿にまします)。
 
 此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おましましき。
[次へ進んで下さい]