36 歴代天皇
 
 36 孝徳コウトク天皇
 
 7世紀中頃の天皇。茅渟王チヌノオオキミの第一王子。名は天万豊日アメヨロズトヨヒ、また軽カル皇
子。大化改新を行う。皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮ナニワノナガラノトヨサキノミヤに移す。
(在位645〜654)(596?〜654)
 大化タイカ  皇紀1305 AD 645
 白雉ハクチ  皇紀1310 AD 650
 
〔神皇正統記〕 第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。乙巳キノトミノ年即位。摂津国長
柄ナガラノ豊崎トヨサキの宮にまします。此御時はじめて大臣を左右にわかたる。大臣は成務の
御時武内の宿禰はじめてこれに任ず。仲哀の御代に又大連オホムラジの官ををかる。大臣・大
連ならびて政をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官をさだめらる。
中臣の鎌足を内臣ウチツオミになし給。
 天下を治給こと十年。五十歳おましましき。
 
 37 斉明サイメイ天皇
 
 7世紀中頃の天皇。皇極天皇の重祚チョウソ。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮イタブキノミヤで即
位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。
(在位655〜661)(594〜661)
 皇紀1315 AD 655
 
〔神皇正統記〕 第三十八代、斉明天皇は皇極の重祚チョウソ也。重祚と云ことは本朝には
これに始れり。異朝には殷ノ太甲タイカフ不明なりしかば、伊尹イイン是を桐宮トウキュウにしりぞけ
て三年政をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。太甲あやまちを悔て徳をお
さめしかば、もとのごとく天子とす。晋ノ世に桓玄カワンゲンと云し者、安帝アンテイの位をうば
いて、八十日ありて、義兵ギヘイの為にころされしかば、安帝位にかへり給。唐の世とな
りて、則天ソクテン皇后世をみだられし時、我所生ワガショシャウの子なりしかども、中宗チュウソウを
すてて廬陵ロレウ王とす。おなじ御子予王ヨワウをたてられしも又すててみづから位にゐ給。
後に中宗位にかへりて唐の祚ソたえず。予王も又重祚あり。是を睿宗エイソウと云。これぞま
さしく重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極の重祚を斉
明と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣をおもくする故か。先賢
の議さだめてよしあるにや。乙卯キノトウノ年即位。このたびは大和の岡本にまします。後の
岡本の宮と申。
 
 此御世はもろこしの唐高宗カウソウの時にあたれり。高麗をせめしによりてすくひの兵
ツハモノを申うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ給。されど三韓つゐに唐に属しし
かば、軍イクサをかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と申
は中の大兄の王子の御事也。孝徳の御代より太子に立給。此御時は摂政し給と見えたり。
 天皇天下を治給こと七年。六十八歳おましましき。
 
 38 天智テンジ天皇
 
 7世紀中頃の天皇。舒明天皇の第二皇子。名は天命開別アメミコトヒラカスワケ、また葛城カズラキ・
中大兄ナカノオオエ。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。
661年、母斉明天皇の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午
年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。
(在位668〜671)(626〜671)
 皇紀1321 AD 661
 
〔神皇正統記〕 第三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。
壬戌ミヅノエイヌノ年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月ハツキに内臣鎌足を内大臣
大織冠とす。又藤原朝臣の姓ショウを給。昔の大勲を賞シャウシ給ければ、朝奨テウシャウならびな
し。先後センコウ封フを給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸ミユキしてとぶらひ給ける
とぞ。此天皇中興の祖にまします(光仁の御祖なり)。国忌は時にしたがひてあらたま
れども、これはながくかはらぬことになりにき。
 天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。
 
 39 弘文コウブン天皇
 
 大友皇子の諡号。
 白鳳ハクホウ 皇紀1332 AD 672
 
 40 天武テンム天皇
 
 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人アマノヌナハラオキノマヒト、また大海人オオアマ。舒明天皇の
第三皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の崩後、壬申の乱(672年)に勝利し、
翌年、飛鳥の浄御原宮キヨミハラノミヤに即位する。新たに八色姓ヤクサノカバネを制定、位階を改定、
律令を制定、また国史の編修に着手。
(在位673〜686)(〜686)
 白鳳 皇紀1332 AD 672
 朱雀スザク 皇紀1346 AD 686
 
〔神皇正統記〕 第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にましまし
き。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを朝廷の臣の中につげ
しらせ申人ありければ、みかどの御意のおもむきにやありけむ、太子の位をみづからし
りぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て
後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野ををそはむとぞはかり給ける。
天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高イヒタカの郡にいたりて太神宮を遥拝エウハイし、
美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市タケチまいり給しを大将軍として、美濃の不破フハ
をまもらしめ、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申ししかば、不破の関の軍
に打勝ぬ。則スナハチ勢多セタにのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大
臣以下イゲ或は誅にふし、或は遠流ヲンルせらる。軍にしたがひ申輩しなじなによりて其賞
をおこなはれ、壬申ミヅノエサルノ年即位。大倭の飛鳥浄御原キヨミハラの宮にまします。朝廷の法
度ハットおほくさだめられにけり。上下カミシモうるしぬりの頭巾カブリをきることも此御時より
はじまる。
 天下を治給こと十五年。七十三歳おましましき。
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