15 歴代天皇
 
 15 応神オウジン天皇
 
 5世紀前後に比定。名は誉田別ホムタワケ。仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后とされるが、
天皇の誕生については伝説的な色彩が濃いと云う。
 皇紀 930 AD 270
 
〔神皇正統記〕 第十六代、第十五世、応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎
中の天皇とも、又は誉田ホムダノ天皇ともなづけたてまつる。庚寅カノエトラノ年即位。大和の軽
島豊明カルシマトヨアカリの宮にまします。
 此時百済より博士ハカセをめし、経史ケイシをつたへられ、太子以下イゲこれをまなびなら
ひて、此国に経史及オヨビ文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。
 
 異朝イテウの一書の中に、「日本は呉の太伯タイハクが後なりと云。」といへり。返々
カヘスガヘスあたらぬことなり。昔「日本は三韓と同種也。」と云事のありし、かの書をば、
桓武の御代にやきすてられしなり。天地アメツチ開ヒラケて後、「すさのをの尊韓カンの地にいた
り給き。」など云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ベウエイならん事、あながちにくるしみ
なきにや。それすら昔よりもちゐざることなり。天地アメツチノ神の御すゑなれば、なにしに
か代くだれる呉ノ太伯が後にあるべき。三韓・震旦(支那の異称)に通じてより以来コノカタ、
異国の人おほく此国に帰化して、秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人
バンジンの子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録シャウジロクと云文フミ
をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、
異学の輩トモガラの云出せる事か。後漢書よりぞ此国のことをばあらあらしるせる、符合し
たることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書タウジョには、日本の皇代記クワウダイキを神
代より光孝の御代まであきらかにのせたり。
 
 さても此御時、武内ノ大臣筑紫をおさめんために彼国につかはされける比コロ、おとゝの
讒ザンによりて、すでに追討せられしを、大臣の僕ヤッコ、真根子マネコと云人あり。かほかた
ち大臣に似たりければ、あひかはりて誅チュウせらる。大臣は忍て都にまうでて、とがなき
よしを明められにき。上古神霊シンレイの主猶かゝるあやまちましまししかば、末代争イカデ
かつゝしませ給はざるべき。 
 天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳をましましき。
 
 欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形ヒシカタの国と云所にあらはれ
給、「われは人皇ニンワウ十六代誉田の八幡丸ヤハタマルなり。」との給き。誉田はもとの御名、
八幡は垂迹スイジャクの号也。後に豊前の国宇佐ウサの宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大
寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣タクセンありき。仍ヨリテ威儀をとゝのへてむかへ申さる。
又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請し奉る。されど勅使などは宇佐にま
いりき。清和の御時、大安寺ダイアンジの僧、行教ギャウケウ宇佐にまうでたりしに、霊告レイカウ
ありて、今の男山ヲトコヤマ石清水イワシミヅにうつりまします。爾来シカシヨリコノカタ行幸も奉幣も石
清水にあり。一代一度宇佐へも勅使をたてまつらる。
 
 昔天孫天降給し時、御供の神八百万ヤホヨロヅありき。大物主の神したがへて天アメへのぼ
りしも、八十万ヤソヨロヅの神と云り。今までも幣帛ヘイハクをたてまつらるゝ神、三千余坐也。
しかるに天照太神の宮にならびて、二所フタトコロの宗廟とて八幡をあふぎ申さるゝこと、い
とたふとき御事なり。八幡と申御名は御託宣に「得道来ミチヲエテヨリコノカタ不動法性
ホッシャウヲウゴカサズ。示八正道ハチシャウダウヲシメシテ垂権迹ゴンジャクヲタル。皆得解脱苦衆生
ミナクノシュジャウヲゲダツスルコトヲエタリ。故号八幡大菩薩コノユエニハチマンダイボサツトガウス。」とあり、八正
ハチシャウとは、内典に、正見シャウケン・正思惟シャウシュイ・正語シャウゴ・正業シャウゴフ・正命シャウミャウ・正精
進シャウシャウジン・正定シャウヂャウ・正恵シャウエ、是を八正道と云。凡心正シャウなれば身口シンクはをの
づからきよまる。三業サンゴフに邪ヨコシマなくして、内外ナイゲ真正シンシャウなるを諸仏出世の本
懐とす。神明の垂迹も又これがためなるべし。又八方に八色ヤイロの幡ハタを立ることあり。
密教の習ナラヒ、西方サイホウ阿弥陀アミダの三昧耶形サンマヤギャウ也。其故にや行教和尚には弥陀三
尊の形にて見えさせ給けり。光明袈裟ケサの上にうつらせましましけるを頂戴して、男山
には安置し申けりとぞ。神明の本地ホンヂをいふことはたしかならぬたぐひおほけれど、
大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或は又、「昔ムカシ於霊鷲山
リャウジュセンニオイテ説妙法華経メウホケキャウヲトク。」とも、或は弥勒ミロクなりとも、大自在王菩薩
ダイジザイワウボサツなりとも託宣し給。中にも八正の幡をたてて、八方の衆生を済度サイドし
給本誓ホンゼイを、能々ヨクヨク思入オモヒイレてつかふまつるべきにや。
 
 天照太神もたゞ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝ましまししことの起オコリは、さき
にもしるし侍ぬ。又雄略天皇二十二年の冬十一月シモツキに、伊勢の神宮の新嘗ニヒナメのまつ
り、夜ふけてかたへの人々罷出マカリイデて後、神主物忌等ばかり留トドマリたりしに、皇太神
・豊受の太神、倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物ジンモツなり。
心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷をもって先サキとし、冥ミャウはくはふるに正直
を以て本モトとす。」とあり。同オナジキ二十三年二月キサラギ、かさねて託宣し給しに、「日
月ジツゲツは四州をめぐり、六合リクガフを照すといへども正直の頂イタダキを照すべし。」と
あり。
 
 大方二所フタトコロノ宗廟の御心をしらんと思はゞ、只正直を先とすべき也。大方天地の間
ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国
なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをし
へ給れるは「黒キタナキ心なくして丹キヨキ心おもて、清潔斎慎キヨクイサギヨクイモホリツツシメ。左の物を
右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめ
ぐることも万事ヨロヅノコトたがふことなくして、太神につかふまつれ。元々ハジメヲハジメトシ本
々モトヲモトトス故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国をおさめ、人をを
しへんことも、かゝるべしとぞおぼえ侍ハベル。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほ
きにあやまる本モトとなる。周易シウエキに、「霜を履フンデ堅カタキ氷に至る。」といふことを、
孔子釈してのたまはく、「積善シャクゼンの家に余慶ヨキャウあり、積不善の家に余殃ヨオウあり。
君を殺シイし父を殺すること一朝一夕の故にあらず。」と云へり。毫釐ガウリも君をいるか
せにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥帯カイタイも親ををろそかにするかた
ちあるものは、果して賊子となる。此故に古の聖人、「道は須臾シュユもはなるべからず。
はなるべきは道にあらず。」といいけり。但其のすゑを学びて源を明めざれば、ことに
のぞみて覚えざる過アヤマチあり。其源と云は、心に一物イチモツをたくはへざるを云。しかも
虚無キョムの中ウチに留トドマるべからず。天地あり、君臣あり。善悪の報ムクイ影響カゲヒビキの如
し。己が欲をすて、人を利するを先として、境々サカヒサカヒに対すること、鏡の物を照すが
如く、明々として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。
 
 代くだれりとて自ら苟イヤシむべからず。天地の始は今日を始とする理なり。加之
シカノミナラズ、君も臣も神をさること遠からず。常に冥ミャウの知見チケンをかへりみ、神の本誓
ホンゼイをさとりて、正シャウに居キョせんことを心ざし、邪ヨコシマなすらんことを思給べし。
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