16 歴代天皇
 
 16 仁徳ニントク天皇
 
 5世紀前半の天皇。応神天皇の第四皇子。名は大鷦鷯オオサザキ。難波に都した最初の天
皇。租税を3年間免除したという聖帝伝承がある。
 皇紀 973 AD 313
 
〔神皇正統記〕 第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫ナカツヒメの命、五百城入
彦イホキイリヒコノ皇子ミコノ女也。大鷦鷯オホサザキの尊と申。
 
 応神の御時、菟道稚ウヂノワカノ皇子と申は最末サイマツの御子にてましまししをうつくしみ給
て、太子に立てんおぼしめしけり。兄コノカミの御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひと
りうけがひ給しによりて、応神悦まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐フサになむ定め
給ける。応神かくれましまししかば、御兄達太子を失はむとせられしを、此尊さとりて
太子と心を一にして彼を誅チュウせられき。爰ココニ太子天位を尊に譲給。尊堅くいなみ給、
三年になるまで互に譲て位を空ムナシクす。太子は山城ヤマシロの宇治にます。尊は摂津の難波
にましけり。国々の御つき物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁ウレヘとなりしか
ば、太子みづから失ウセ給ぬ。尊おどろき歎給ことかぎりなし。されどのがれますべきみ
ちならねば、癸酉ミズノトトリの年即位。摂津国難波高津タカツの宮にまします。
 
 日嗣をうけ給しより国をしづめ民をあわれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。
民間の貧きことをおぼして、三年の御調ミツキを止トドメられき。高殿にのぼりてみ給へば、
にぎはゝしく見えけるによりて、
 高屋タカキヤにのぼりてみれば烟ケブリ立 民のかまどはにぎはひにけり
とぞよませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中破ヤブレて雨露もたまらず。宮人
ミヤビトの衣コロモ壊ヤブレて其よそほひ全マタからず。御門は是をたのしみとなむおぼしける。
かくて六年ムトセと云に、国々の民各まいり進て大宮造ヅクリし、色色御調を備へけるとぞ。
ありがたかりし御政マツリコトなるべし。
 天下を治給こと八十七年。百十歳をましましき。
 
 17 履中リチュウ天皇
 
 5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第一皇子。名は大兄去来穂別オオエノイザホワケ。
 皇紀1060 AD 400
 
〔神皇正統記〕 第十八代、履中天皇は仁徳の太子。御母磐之姫イハノヒメの命、葛城カヅラキ
の襲津彦ソツヒコの女也。庚子カノエネの年即位。又大和の磐余イハレノ稚桜ワカサクラの宮にまします。
後の稚桜の宮と申。
 天下を治給こと六年。六十七歳をましましき。
 
 18 反正ハンゼイ天皇
 
 5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第三皇子。名は多遅比瑞歯別タジヒノミズハワケ。
 皇紀1066 AD 406
 
〔神皇正統記〕 第十九代、反正天皇は仁徳第三の子、履中同母の弟也。丙午ヒノエウマノ年
即位。河内の丹比タヂヒの柴籬シバガキの宮にまします。
 天下を治給こと六年。六十歳をましましき。
 
 19 允恭インギョウ天皇
 
 5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第四皇子。名は雄朝津間稚子宿禰オアサズマワクゴノスクネ。盟神
探湯クカタチで姓氏の混乱を正したと云う。
 皇紀1072 AD 412
 
〔神皇正統記〕 第二十代、允恭天皇は仁徳第四ノ子、履中・反正同母ノ弟也。壬子ミヅノエネ
の年即位。大和の遠明日香トヲツアスカの宮にまします。
 
 此時までは三韓の御調年々トシドシにかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけり
となむ。八年己未ツチノトヒツジにあたりて、もろこしの晋シンほろびて南北朝となる。宋ソウ・斉
セイ・梁リャウ・陳チンあひつぎて起る。是を南朝ナンテウといふ。後魏コウギ・北斉ホクセイ・後周コウシウつぎ
つぎにおこれりしを北朝ホクチョウと云。百七十余年はならびて立たりき。
 此天皇天下を治給こと四十二年。八十歳をましましき。
 
 20 安康アンコウ天皇
 
 5世紀中頃の天皇。名は穴穂アナホ。允恭天皇の皇子。大草香皇子の王子眉輪マヨワ王に暗殺
された。
 皇紀1113 AD 453
 
〔神皇正統記〕 第二十一代、安康天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中姫ヲシサカノオホナカツヒメ、
稚渟野毛二派ワカヌノケフタマタの皇子(応神の御子)の女也。甲午キノエウマノ年即位。大和穴穂アナホノ
宮にまします。
 
 大草香オホクサカノ皇子を(仁徳ノ御子)ころして其妻メをとりて皇后とす。彼皇子の子眉輪
マユワノ王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入シュツニフしけり。天皇高楼タカドノの上に酔臥
エヒフシ給けるをうかゞひて、さしころして、大臣オホオミ葛城カヅラキの円ツブラが家ににげこもり
ぬ。
 此天皇天下を治給こと三年。五十六歳をましましき。
[次へ進む] [バック]