13 歴代天皇
 
 13 成務セイム天皇
 
 景行天皇の第四皇子。名は稚足彦ワカタラシヒコ。
 皇紀 791 AD 131
 
〔神皇正統記〕 第十三代、成務天皇は景行第三ノ子。御母八坂入姫ヤサカイリヒメ、八坂入彦
の皇子(崇神の御子)の女也。日本武ノ尊日嗣をうけ給ふべかりしに、世をはやくしまし
まししかば、此御門ミカド立給。辛未カノトヒツジ歳即位。近江の志賀シガノ高穴穂タカアナホの宮に
まします。神武より十二代、大和国にましましき(景行天皇のすゑつかた、此高穴穂に
ましまししかど定サダマレる皇都にはあらず)。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、
武内の宿禰スクネを大臣オホホミとす(大臣の号これにはじまる)。四十八年の春、姪ヲヒ仲足彦
ナカタラシヒコの尊(日本武の尊の御子)をたてて皇太子とす。
 天下を治給こと六十一年。百七歳をましましき。
 
 14 仲哀チュウアイ天皇
 
 日本武尊ヤマトタケルノミコトの第二王子。皇后は神功皇后。名は足仲彦タラシナカツヒコ。熊襲クマソ征伐
の途中、筑前国の香椎カシイ宮で没したと云う。
 皇紀 852 AD 192
 
〔神皇正統記〕 第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行ノ御孫也。御
母両道入姫フタチイリヒメ、垂仁天皇ノ女也。大祖タイソ神武より第十二代景行までは代のまゝに継
体し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務是をつぎ給。此天皇を太子としてゆ
づりましまししより、代ダイと世セイとかはれる初なり。これよりは世を本モトとしるし奉べ
きなり(代と世とは常の義差別シャベツなし。然ど凡の承運ショウウンとまことの継体とを分別
せん為に書分カキワケたり。但字書にもそのいはれなきにあらず。代は更カウの義也。世は周
礼シュライの註に、父死シシて子立を世と云とあり)。此天皇御かたちいときらきらしく、御
たけ一丈ましましける、壬申ミヅノエサルの年即位。此御時熊襲又反乱して朝貢せず。天皇軍
イクサをめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給。皇后息長足姫オキナガタラシヒメノ尊は越
前の国笥飯ケイの神にまうでて、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇
后にかたり奉る。「これより西に宝の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国なり。
又伊弉諾・伊弉冉のうみ給へりし国なれば、うたずともつゐにしたがひたてまつりなむ。
」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日カシヒの行宮カリミヤにしてかくれ給。
長門ナガトにおさめたてまつる。是を穴戸アナトノ豊浦トヨラの宮と申す。
 天下を治給こと九年。五十二歳をましましき。
 
   神功ジングウ皇后
 
 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛オキナガタラシヒメ。開化天皇第五世の孫、息長宿禰王の女
ムスメ。天皇とともに熊襲クマソ征服に向い、天皇香椎宮に崩御の後、新羅シラギを攻略して凱
旋し、誉田別皇子ホムタワケノミコト(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして崩。
 皇紀 861 AD 201
 
〔神皇正統記〕 第十五代、神功皇后は息長の宿禰の女、開化天皇四世の御孫なり。息
長足姫の尊と申す。仲哀たてて皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世をはやくし給し
かば、皇后いきどをりまして、七日あッて別殿を作り、いもほりこもらせ給。此時応神天
皇はらまれましましけり。神がかりてさまざま道ををしへ給ふ。此神は「表筒男ウハツツノヲ・
中筒男・底筒男なり。」となむなのり給ける。是は伊弉諾尊日向の小戸ヲトの川檍アハギが原
にてみそぎし給し時、化生ケシャウしましける神也。後には摂津国住吉にいつかれ給神これ
なり。
 
 かくて新羅シラギ・百済クダラ・高麗カウライ(此三ケ国を三韓と云。正タタシクは新羅にかぎるべ
きか。辰韓シンカン・馬韓バカン・弁韓ベンカンをすべて新羅と云也。しかれどもふるくより百済・
高麗をくはへて三韓と云ならはせり)をうちしたがへ給き。海神たちをあらはし、御船
をはさみまぼり申しかば、思オモヒの如く彼国を平げ給。神代より年序ひさしくつもれりし
に、かく神威をあらはし給ける、不測ハカラザル御ことなるべし。海中にして如意の珠を得
給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の申給しによ
りて、是を胎中タイチュウの天皇とも申。皇后摂政して辛巳カノトミノ年より天下をしらせ給。
 
 皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の兄コノカミ忍熊オシクマの王謀反ムホンをおこし
て、ふせぎ申さむとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門ミナトにつ
け、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱ミダレを平げられにき。皇子をとなび給し
かば皇太子とす。武内ノ大臣もはら朝政を輔佐フサし申けり。大和の磐余イハレノ稚桜ワカサクラの
宮にまします。
 
 是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさををかれ
しかば、西蕃セイバン相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるに
や。「倭国ワコクの女王遣使ツカヒヲツカハシて来朝す。」と後漢書ゴカンジョに見えたり。
 
 元年辛巳カノトミ年は漢の孝献帝カウケンテイ二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、
王莽ワウマウといふ臣位クライをうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時
に、漢は滅して此御代の十九年己亥ツチノトイに献帝位をさりて、魏ギの文帝にゆづる。是よ
り天下三にわかれて、魏ギ・蜀ショク・呉ゴとなる。呉は東によれる国なれば、日本の使もま
づ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。又魏ノ国にも通ぜられける
かと見えたり。四十九年乙酉キノトトリと云し年、魏又滅て晋シンの代にうつりにき(蜀の国は
三十年癸未ミヅノトヒツジに魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年
辛丑晋のためにほろぼさる)。
 
 此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳をましましき。
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