11 歴代天皇
 
 11 垂仁スイニン天皇
 
 崇神天皇の第三皇子。名は活目入彦五十狭茅イクメイリビコイサチ。
 皇紀 632 BC  28
 
〔神皇正統記〕 第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母御間城姫ミマキヒメ、大彦オホヒコの
命(孝元の御子)の女也。壬辰ミヅノエタツの年即位。大和の巻向マキムクの珠城タマキの宮にまし
ます。
 
 此御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のを
しへにより、なを国々をめぐりて、二十六年丁巳ヒノトミ冬十月甲子キノエネに伊勢国度会ワタライノ
郡コホリ五十鈴川上に宮所をしめ、高天タカマの原に千木高知チギタカシリ下都磐根シタツイワネに大宮柱
広敷立フトシキタテてしづまりましましぬ。此所は昔天孫アメミマあまくだり給し時、猿田彦の神
まいりあひて、「われは伊勢の狭長田サナガタの五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所
也。大倭姫の命、宮所を尋タヅネ給しに、大田の命と云人(又興玉オキタマとも云)まいりあ
ひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猿田彦の神の苗裔ベウエイ也とぞ。彼カノ川上に五十鈴
・天上の図形ヅギャウなどあり(天皇の逆戈もこの所にありきとも一説あり)。「八万歳の
あひだまぼりあがめたてまつりき。」となむ申ける。かくて中臣ナカトミの祖オヤ大鹿島オホカシマ
の命を祭主とす。又大幡主オホハタヌシと云人を太神主オホカムヌシになし給。これより皇太神
スメオホミカミとあがめ奉て、天下第一の宗廟サウベウにまします。
 
 此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳をましましき。
 
 12 景行ケイコウ天皇
 
 垂仁天皇の第三皇子。名は大足彦忍代別オオタラシヒコオシロワケ。熊襲クマソを親征、後に皇子日本
武尊ヤマトタケルノミコトを派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
 皇紀 731 AD  71 
 
〔神皇正統記〕 第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉洲媛ヒハスヒメ、丹波道主の
王の女也。辛未カノトヒツジノ年即位。大和の纏向マキムクの日代ヒシロの宮にまします。
 
 十二年秋、熊襲クマソ(日向にあり)そむきてみつきたてまつらず。八月ハツキに天皇筑紫
に幸ミユキす。是を征セイし給。十三年夏ことごとく平ぐ。高屋タカヤの宮にまします。十九年
の秋筑紫より還カヘリ給。
 
 二十七年秋、熊襲又そむきて辺境をおかしけり。皇子小碓ヲウスの尊御年十六、おさなく
より雄略気ヲヲシキケまして、容貌ヨウハウ魁偉スグレタタハシ。身の長タケ一丈、力能ヨクかなへをあげ給
ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀キボウをもて、梟帥
タケルヒトコノカミ取石鹿父トリイシカヤと云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武ヤマトタケとなづけ申けり。
悉コトゴトク余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神アシキカミをころしつ。二十八年春かへり
こと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。
 
 四十年の夏、東夷をほく背ソムキて辺境さはがしかりければ、又日本武の皇子をつかは
す。吉備キビの武彦タケヒコ、大伴オホトモの武日タケヒを左右の将軍としてあひそへしめ給。十月
に枉道ヨギリミチして伊勢の神宮にまうでて、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづ
けて、「つゝしめ、なをこたりそ。」とをしへ給ける。駿河スルガに(駿河日本紀説、或
アルイハ相模サガミ古語拾遺説)いたるに、賊徒ゾクト野に火をつけて害したてまつらんことを
はかりけり。火のいきをひまぬかれがたかりけるに、はかせる聚(草冠+聚)雲ムラクモの
剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて草薙クサナギ
の剣と云。又火うちをもて火を出イダシて、むかひ火を付て、賊徒を焼ころされにき。こ
れより船に乗給て上総カヅサにいたり、転じて陸奥ミチノクノ国にいり、日高見ヒタカミの国(その
所異説有)にいたり、悉蝦夷エビスを平げ給。かへりて常陸ヒタチをこえ甲斐カヒにこえ、又武
蔵ムサシ・上野カミツケをへて、碓日坂ウスヒザカにいたり、弟橘媛オトタチバナヒメと云し妾ミメをしのび給
(上総へ渡給し時、風波あらかりしに、尊の御命をあがはむとて海に入し人也)。東南
の方をのぞみて、「吾嬬者耶アヅマハヤ。」との給しより、山東サントウの諸国をあづまといふ
なり。これより道をわけ、吉備の武彦をば越後エチゴノ国に遣して不順者マツロハヌモノを平タヒラゲ
しめ給。尊は信濃シナノより尾張ヲハリにいで給。かの国に宮簀媛ミヤスヒメと云女あり。尾張の稲
種イナタネノ宿禰の妹也。此女をめして淹ヒサシク留トドマリ給あひだ、五十葺イブキの山に荒神
アラブルカミありと聞えければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。山神
ヤマノカミ化ケして小蛇コヘビになりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神
毒気を吐ハキけるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給。能褒野ノボノと云所に
て御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしを奏して、つゐ
にかくれ給ぬ。御年三十なり。天皇きこしめして、悲カナシミ給事限カギリなし。軍卿百寮
グンケイヒャクレウに仰オホセて、伊勢国能褒野におさめたてまつる。白鳥シラトリと成て、大和国をさ
して琴弾コトヒキノ原にとゞまれり。其所に又陵ミサザキをつくらしめられければ、又飛て河内
カハチノ古市フルイチにとゞまる。その所に陵を定られしかば、白鳥又飛て天アメにのぼりぬ。仍
ヨリテ三ミツの陵あり。
 
 彼草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の熱田神にまします。
 五十一年秋八月ハツキ、武内タケウチの宿禰を棟梁の臣とす。五十三年秋、小碓ヲウスの命の平
コトムケし国をめぐり見ざらんやとて、東国に幸ミユキし給。十二月シハスあづまよりかへりて、
伊勢の綺カムハタの宮にましくす。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、纏向マキムクの宮にか
へり給。
 天下を治給こと六十年。百四十歳をましましき。
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