02a 歴代天皇
 
  7 孝霊コウレイ天皇
 
 孝安天皇の第一皇子。名は大日本根子彦太瓊オオヤマトネコヒコフトニ。
 皇紀 371 BC 289
 
〔神皇正統記〕 第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫オシヒメ、天足彦国アメタラシヒコクニ押
人オシヒトノ命の女也。辛未カノトヒツジノ年即位。大和の黒田クロダ廬戸イホトの宮にまします。
 
 三十六年丙午ヒノエウマにあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯
キノトウ、秦の始皇シクワウ即位。此始皇仙方センホウをこのみて長生不死チャウセイフシの薬を日本にもと
む。日本より五帝三皇の遺書を彼カノ国にもとめしに、始皇ことごとくこれをおくる。其
後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経ゼンキャウ日本にとゞ
まるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたいらげ給しより、
異国に通じ、応神の御代より経史ケイシの学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より
此国に文字モンジありとはきかぬ事なれど、上古シャウコのことは慥タシカに注シルシとゞめざるに
や。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備キビノ大臣、入唐し
て伝たりける本こそ流布したれば、この御代より伝けむ事もあながちに疑まじきにや。
 
 凡此国をば君子不死の国とも云なり。孔子世のみだれたる事を歎て、「九夷キウイにをら
ん。」との給ける。日本は九夷の其一ヒトツなるべし。異国には此国をば東夷トウイとす。此
国よりは又彼国をも西蕃セイバンと云るがごとし。四海といふは東夷トウイ・南蛮ナンバン・西羌
セイキャウ・北狄ホクテキ也。南は蛇ジャの種シュなれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかうなれば、
羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命イノチながし。
よりて大ダイ・弓キウの字をしたがふといへり。
 
 裏書に云。
 夷は説文に曰く。東方之人也。大に从シタガヒ弓に从ふ。徐氏曰く。唯東夷大に从ひ弓に
 从ふ。仁に して寿。君子不死の国有りと云。仁にして寿。未だ弓字の義に合はず。
 弓は近きを以て遠きを窮むる也と云。若しくは此の義を取れるか。
 
 孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけむことあやしむに足タンぬ
ることにや。
 此天皇天下を治給事七十六年。百十歳をはしましき。
 
  8 孝元コウゲン天皇
 
 孝霊天皇の第一皇子。名は大日本根子彦国牽オオヤマトネコヒコクニクル。
 皇紀 447 BC 213
 
〔神皇正統記〕 第八代、孝元天皇は孝霊の太子。御母細媛クハシヒメ、磯城シキノ県主アガタヌシ
の女也。丁亥ヒノトイノ年即位。大倭の軽境原カルノサカヒハラの宮にまします。九年乙未キノトヒツジの
年、もろこしの秦シン滅て漢カンにうつりき。
 此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳をましましき。
 
  9 開化カイカ天皇
 
 孝元天皇の第二皇子。名は稚日本根子彦大日日ワカヤマトネコヒコオオヒビ。
 皇紀 504 BC 156
 
〔神皇正統記〕 第九代、開化天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎媛ウツシコメヒメ、穂積の臣
オミノ上祖トヲツヲヤ鬱色雄ウツシコヲノ命ノ妹也。甲申キノエサルノ年即位。大和の春日カスガノ率川イサガハの宮
にまします。
 天下を治給こと六十年。百十五歳をましましき。
 
 10 崇神スジン天皇
 
 開化天皇の第二皇子。名は御間城入彦五十瓊殖ミマキイリビコイニエ。
 皇紀 564 BC  96
 
〔神皇正統記〕 第十代、崇神天皇は開化第二の子。御母伊香色謎媛イカガシコメヒメ(初は孝
元の妃として彦太忍信ヒコフトオシマコトの命をうむ)、太綜麻杵オホヘソキの命の女也。甲申キノエサルの
歳即位。大和の磯城シキの瑞籬ミヅカキの宮にまします。
 
 此御時神代をさる事、世は十トつぎ、年は六百余になりぬ。やうやく神威をおそれ給
て、即位六年己丑ツチノトウシノ年(神武元年辛酉より此己丑までは六百二十九年)、神代の鏡
造の石凝姥イシコリドメの神のはつこをめして鏡をうつし鋳イせしめ、天目一箇アメノマヒトツの神の
はつこをして剣をつくらしむ。大和ヤマトノ宇陀ウダの郡コホリにして、此両種をうつしあらた
められて、護身の璽シルシとして同殿オナジトノに安置す。神代よりの宝鏡をよび霊剣をば皇女
クワウヂョ豊鋤入姫トヨスキイリヒメの命につけて、大和の笠縫カサヌヒの邑ムラと云所に神籬ヒモロギをたて
てあがめたてまつらる。これより神宮・皇居各オノオノ別になれりき。其後太神オホミカミのをし
へありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴て所々をめぐり給けり。
 
 十年の秋、大彦オオヒコノ命を北陸ホクロクに遣し、武渟川別タケヌナカハワケの命を東海に、吉備津彦
キビツヒコノ命を西道サイダウに、丹波タニハの道主ミチヌシの命を丹波タンバに遣す。ともに印綬インジュ
を給て将軍とす(将軍の名はじめてみゆ)。天皇の叔父シュクフ武埴安彦タケハニヤスヒコの命、朝
廷をかたぶけむとはかりければ、将軍等を止トドメて、まづ追討しつ。冬十月カンナヅキに将
軍発路ミチタチす。十一年の夏、四道の将軍戎夷ジュウイを平タヒラゲぬるよし復命カヘリコトす。六十
五年秋任那ミマナの国、使をさして御ミつきをたてまつる(筑紫をさること二千余里といふ
)。
 天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おましましき。
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