神様の戸籍調べ
 
四十六 天神様
 
 天神様くらい、日本の子供大供に名の知れた神は少なからう。五月人形にも天神雛と
云って、智慧を好む人の子に贈物にする、智慧、学問の神様として、日本人と最も深い
因縁のある神である。そして、梅干の神様でもある。天神様の紋所は、梅の花であると
云ふのは、この神様が未だ人間で、菅原道真公がと云って、藤原時平と云ふ者と政治的
競争の結果、失敗して九州に左遷サセンせられ、東風コチ吹く春の初め、京ミヤコを後に、千鳥
なく松浦潟近き太宰府に出発の朝、袖の涙を絞りつゝ、
 
 東風吹かば香ニホヒおこせよ梅の花 主アルジなしとて春な忘れそ
 
と、愛した梅に別れを告げると、梅の花がポロポロと涙をこぼした、これから以後、世
人が道真公の心中を察して、梅を以て公の表徴としたのであった。
 
 道真公は、日本角道スマフの本家家元と云はれる野見宿禰ノミノスクネの末孫の、参議従三位菅
原是善コレヨシの第三子で、幼名を阿呼丸アコマルと呼び、目から鼻にぬけるやうな怜悧レイリなる
人で、貞観ジョウガン二年に文章得業生となったのを振出しに、ズンズンと出世して、宇多
醍醐の両朝に事ツカへ奉り、寛平カンピョウ九年に正三位中宮太夫、文書内覧の要職に上り、
女ムスメ衍子エンコは女御ニョゴとなり、遂に昌泰ショウタイ二年右大臣となって、藤原時平フヂハラノトキ
ヒラの左大臣と併せて、天下の大政を処理し、進んで関白にならんとの事実があった。藤
原一族は、この新進異性の道真公の立身に嫉妬し、時平を筆頭に源光ミナモトノヒカル、藤原菅
根スガネ等が謀って、醍醐天皇に讒言ザンゲンを申して云ふには、
 「道真は、女衍子の生んだ斉世ナリヨ親王シンワウを擁立せんの異図があります。不忠の奴で
あります」
と、巧に芝居を仕組んだので、天皇も遂に信じ給ひ、道真公は茲に謀反ムホンの罪で以て、
太宰ダザイ権帥ゴンノソチに陥オトし、延喜エンギ元年春九州に下り、そして謫所タクショにあること
三年、人寿五十九歳にして延喜三年二月薨ず。太宰府に近き安楽寺に墓を築いたのが、
今の太宰府天満宮である。
 
 この後、天下は大雷雨が連続したので、藤原氏は、これは菅公の霊のするところであ
ると心配して、延喜九年遂に神様となし、雷カミナリとなったと云ふので、天神様と申し上
げた。正暦シャウリャク年中に正一位となって、稲荷天社と同格になり、京都では北野の天神、
江戸では亀戸の天神、大阪では天満の天神、その他全国に天神様として遍アマネく祀られて
ゐる。この神様は、非常に学問が秀ヒイで、詩文の妙は中国人以上で、菅家詩集、同文章
の如きは、本朝詩文の精粋と称せられる程である。
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