神様の戸籍調べ
 
二十八 天津日高日子穂々出見命アマツヒダカヒコホホデミノミコト
 
戸籍簿
              日子穂々出見命 亦名火遠理命
  大綿津見神長女 御妻   豊玉姫
          御父   日子番能邇々芸命
          御母
          御兄   火照命
          同姉   火須勢理命
          御子   鵜茅葺不合命
 
 神武天皇の御祖父にあらせられる神様であって、天孫邇々芸命の第三の御子であらせ
られ、後幼名を火折命ホヲリノミコトと申し、山の幸サチを支配して居らせられた。御兄様に火照
命ホテリノミコトと申す方があって海の幸をもってゐられ、御兄弟で山と海とに於て御得意なる
猟の巧妙さを得て御出なされたのである。
 ある時、御兄弟が御相談なされて、火折命が海に、火照命が山に、猟場を換へてやっ
て見やうとなって来た。各々思はれるは、
 「私の手慣れた弓を用ゐると、どんな足早な獣でも逃しはせぬやうに、一つ海に出た
ら、兄さんを驚ろかしてやらう」
 「私の得意の釣鉤ツリバリで魚をつるとまたゝく隙に魚が籃カゴに一杯漁アサれるやうに、
山で鹿でも兎でもせしめて弟を喫驚ビックリさせてやらう」
と。そこで兄さんの鉤ハリと、弟さんの弓矢を交換して出かけられた。火折命は山で猟を
する時のやうに、軽い心地よい気持で御出かけになると、仲々勝手が違って思ふやう所
か一匹もとれぬ。兄火照命も亦同様、山を彼方此方と駆け廻って見ても、兎一匹とれぬ
と云ふ有様に失望せられた両人の命ミコトは、一日中働いて一つもない。その中に火折命
は、兄さんから借りた鉤ハリを、グイと引張った拍子に、慣れぬ調子であった為か、魚に
取られて終った、平常から一徹な兄の気質を知られてゐる火折命は心配でならぬ。然し
魚は幾百千万数知れぬ、山の幸になれた自分では到底この鉤の行跡の知れやう筈がない。
心細くも眺むる海の面に、千波万波はよせて返せど、返へり来ぬ兄からの借もの、茫然
自失の外はない。
 
 「どうだい? 僕の方は皮一枚も取れぬ。サア弓矢は返へすよ」
と火照命に返へされた自分の弓矢。その弓矢が胸の射透イトホるやうなつらい心の中自ら面
に表れし心配顔、
 「どうかしたのかい? なに鉤ハリをなくしたッ。御前は人のものを無してそれで済む
気かい。早く返へして呉れ」
と責められて、泣く泣く佩剣ハイケンを斫キって千五百本の鉤を作りて、
 「是で辛棒して下さい兄さん、到底沢山の魚の中だから、索た処が解目カイモク訳が解ら
う筈がないから・・・・・・」
と差出す千五百の鉤を尻目にかけ火照命は尚も、
 「千五百の鉤! 成程ウンと承知はしたいが山々だけれど、他の鉤じゃ勝手がわるく
ていけないんだ、あの鉤を返して呉れ、千本の鉤よりもあの一本が私には尊いのだぞ」
 
 厳しい催促に火折命は、とても望はないものの、元来し海辺、鉤をなくしたあの場所
辺を、彼方此方と徨彷ウロツクも、元より魚にとられた鉤の、浜辺にあらう筈がない。詮方
つきて、思案もなくなく首を低れ、悄々シホシホと汐風吹く砂地にたゝずむでゐられと、一
人の老人、それは塩土シホツチの老翁オキナが来て、その訳を尋ねたから、斯様々々と落なく物
語ると、
 「御心配なさるには及びませぬ、私は海の事は精しいものであるから、一つその鉤を
返るやうに、よい事を教へてあげませう」
と、嚢フクロの中から黒い櫛を出して、浜の砂に投げると、びっしりと茂った竹薮が出来た
から、翁は、その竹を切って、無目篭と云ふものを作り、火折命をその中にのせ、
 「この船を海中進めると、ブクブクと沈みますが、御心配には及びませんよ。沈むで
ついた処に一道のよい道がありまから、そこをゆかれると、立派な海神ワタツミの御宮があ
ります。茲で海神に御相談しなさると、鉤を見つけることなどは、造作もありません」
と。竹篭に乗られた火折命ホヲリノミコトは、間もなく海の底に到着せられると、不思議にも水
がなくて、清キレいな道があって、彼方に実に嘗って見たこともない立派な宮殿があった。
 「成程、あれがあの翁の言った海神ワタツミの宮であるのだなァー」と思し召した火折命
は、門前の一本の木に上って、誰か来ないか、何か機会はないかと待ってゐられると、
かゝる処に人しあると知らぬ、宮仕の婢ヲンナが闥トビラをあけて出て来て、水を汲まんとす
る途端、井戸の中に写る美しき男の姿、是はと仰ぐ樹の上には、火折命はニコニコして
ゐられる其顔の美しさ、気高さ、驚ろく婢に声をかけて、
 「その水を一杯呉れないか」
 「ハイ」
と答へて、玉碗ギョクワンに汲むだ水を奉ると、受取られたかの命ミコトは、御頚にかけてゐら
れた珠を口に含み、その碗に吐き入れなさると、珠が玉碗に凝りついた。返しなされた
その珠つきの玉碗をもって、走って入る婢、間もなく海神の女ムスメ豊玉姫トヨタマヒメは、その
美しい姿を門前に現した。姫が前の婢ヲンナの指す方をみると、流石に天津神アマツカミの御子
とて、輝く計りの火折命の勇々しき姿を、樹の上に見出した時、姫はポッとする程面を
赤められた。
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