神様の戸籍調べ
 
十三 天饒速日命アマノニギハヤヒノミコト
 
 御本籍        高天原
 御寄留地       大和国鳥見白庭山トリミシロニハヤマ
            天饒速日命
   長髄彦 御妻    御炊屋姫
       御父    忍穂耳命
       御母    萬幡豊秋津師姫
       御長子   宇摩志摩治命
 
 饒速日命の御本名は、天照国アマテルクニ照彦テルヒコ天火明アメノホアカリ櫛玉クシタマ饒速日命と申し、
邇々邇命ニニギノミコトの御兄様で、丁度忍穂耳命ヲシノホミミノミコトが、日本を征定の為に御降臨の
砌ミギリに御誕生になったので、この命をして代理に下させ度いと天照大御神の御願なさ
ると、御勅許になり、十種の天璽アマタマを授けられ、
 「若し痛む処があらば、この十種の宝を以て、一二三四五六七八九十と言って打ち振
ふがよい、そうすれば死人でも甦るであらうぞ。日本に於て若し逆戦するものがあった
ならば、智慧を廻らして平定するがよい」
と御神勅をかしこみ、三十二人の従神、並に色々の部人を率ゐて、天磐船アメノイハフネと云ふ
のに乗って、先づ河内国河上の哮峯イカルガミネに降臨せられた。その時の御有様は非常に御
盛大であったが、後遷って大和国鳥白庭山トリミシロニハヤマに宮居し給ひ、土地の豪族長髄彦ナ
ガスネヒコの妹御炊屋姫ミカシヤヒメを妃となして、宇摩志摩治命ウマシマヂノミコトと云ふ可愛い御子を
産み設けてゐられたが、其後、邇々杵命亦御降臨になり、遂に神武天皇の御宇ギョウにな
って天皇の御東征となり、即ち皇軍河内より進みて大和に侵入なされたが、長髄彦は饒
速日命を奉じて、神武天皇の軍に反抗して勢い頗る強盛を極ぬ、皇兄クワウケイ五瀬命イツセノ
ミコトは、長髄彦の射出せる毒矢に射ぬかれ給ひし程非常なる御苦戦であったので、皇軍は
退きて、河内より摂津に出て、海路南に走られたのであった。
 
 この戦争の最中に、長髄彦の軍使が来て天皇に奏して言ふやうには、
 「天皇に二日あるべからず、天神に二流あるべからず、吾は実に天神の御子、奇玉饒
速日命クシタマニギハヤヒノミコトを奉じて君となしてゐるのである」
と。そこで、
 「天神の御子孫も多い、汝の奉ずる命ミコトが天神の御子であるならば、必ず天璽テンジが
あらう、その天神たる証拠はどこじゃ」
と天皇が御問になったので、長髄彦の軍使は、是を報じたから、長髄彦はそこで饒速日
命の天羽羽矢アメノハハヤと天歩靱アメノカチユキを示し奉る。天皇が御覧になると、成程少しも間違
がないから、天皇も亦、御自分の御佩になってゐた天羽羽矢と天歩靱とを長髄彦に示し
になったので、彼は、
 「アア天孫に違いない、実にこの天孫に脊くは尤体ない事だ」
と心には思ったものの、最早事急に迫って、今更ら和睦も出来ぬから、
 「ヤッつけろ。焼糞ヤケクソじゃ」
と尚も反抗したが、饒速日命は真に天孫の御東征と聞き給ひ、神勅の程も思ひ出されて、
是非この際は穏和に解決し度いと思ひなされたが、仲々に長髄彦が剛情で肯キカない故、
止むなく是を殺して皇軍に恭順の意を表しなされた。
 この饒速日命が物部氏モノノベシの祖先である。
 旧事紀キウジキには、御母御炊屋姫ミカシヤヒメが胎妊中にこの饒速日命は崩御なされてゐたと
あるが、今は古事記や日本書紀によって記しておく。
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