神様の戸籍調べ
 
九 天津日高日子番能邇々芸命アマツヒタカヒコホノニニギノミコト
 
天津日高日子番能邇々芸命の戸籍原簿(抄)
 御本籍地      大隅国曽於郡韓国嶽
 御現住所      日向国霧島神宮
            天津日高日子番能邇々芸命
  御妻妃大山見津女   木花開耶姫命
  御父         天之忍穂耳命
  御母         萬幡豊秋津師比売命ヨロヅハタトヨアキツシヒメノミコト
  御子         火照命
  同          火須勢理命
  同          火折命 後ニ日子穂々出見ト申ス
 
 この神様は、天孫邇々杵命ニニギノミコトと申し上げて、誰でも御名は知ってゐるが、邇々
と云ふのに丹にて赤いと云ふ意味で、杵コは男子の義であるから、赤き男とて、立派なる
壮健なる勇子と云ふのが迩々杵命と云ふ御名の意味である。
 初め、天照大御神が日本を治め給ふべく、天忍穂耳命アメノオシホミミノミコトに御命令になった
処が、今や御降臨遊ばさんとする時、この命が御誕生されたから、忍穂耳命はこの御子
をして、代りに降臨せしめ度いと御思し召して、大御神に御相談になると、よからうの
御勅許があった。
 そこで御成長ましました邇々杵命は、大御神から、
 「大日本国は吾が子孫の治むべき国である」
との御詔オンミコトノリを賜はり、且つ叢雲剣ムラクモノツルギ、八咫ヤタの御鏡ミカガミ、八坂ヤサカニの勾珠
マガタマの三種の神器を与へられ、
 「この鏡を見ること、尚ほ朕を見るが如くせよ」
との御優旨を蒙られて、澤山の神々を御従ひなされ、堂々と御降臨なされた。
 
 御道は、高天原の天之石座アメノイハクラを離れ給へ、天の八重雲ヤエクモを掻き分け給ひ猿田彦
命サルタヒコノミコトの御案内にて、日向の国高千穂、久士布流峰クシフルミネに天降アマクダられ、それ
から、膂肉韓国ソシシノカラクニから笠狭カササの御崎に行幸遊ばされたが、この笠狭の御崎は非常
によい土地であったので、命ミコトは、
 「こゝは朝日も夕日も照す国であるから、日の神の子孫たる私共の住むべき地である」
とて、宮殿を建てなされて、茲で三代の皇居を定められた。
 ある時、命ミコトが御散歩をなさると、非常に美しい少女ヲトメに御遇になってので、誰の
娘ぞと御尋ねになると、大山津見神オオヤマツミノカミの娘で木花咲耶姫コノハナサクヤヒメであるとの事、
是非御妃に欲しいものであると、命は大山津見神に御相談になると、大山津見神は非常
に嬉んで、
 「誠に有難いことでありまする。天孫の御妃になるとは私一家の名誉此上もありませ
ん」とて、姉の岩長姫をも副へて一緒に御送りになる。
 この岩長姫は、怕コワい顔の不別嬪で、どうしてこの花のような咲耶姫の御兄弟に、這
麼コンナお方が出来たのであらうと皆が不審に思ふ程、恐ろしい醜い姫様であったから、命
は、
 「こんな岩長姫は妃にはせないから、連れて帰って呉れ」
と御仰になって、木花咲耶姫だけを止めて、后となされ、非常に仲よく三人の御皇子を
挙げさせられたが、岩長姫を還されて、大山津見神は、殊の外不機嫌であって、
 「この岩長姫をも御留めになると、命の御寿オイノチは後々の天子様の御寿命も岩の如く、
長く御生きになることであったらうに、咲耶姫だけを妃になさったから、木の花の美し
さもやがて、散るも春の暮であるやうに、天子様の御玉算ミタマグシも余り長くないことに
なります」
と言った。
 その後、日向御崎ヒウガミサキの宮に崩じ給ひしを以て、同国可愛カエの山陵に葬り奉った。
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