18 社僧・神宮寺
 
[社僧]
社僧は一に宮僧と云ひ、また供僧若くは神僧とも云ふ、即ち宮寺に在りて、仏事を修す
る僧侶の総称なり。社僧の内、其の最も多くして且つ最も旧きものを別当と為す。
別当ベッタウ・ベタウは、即ち其の本官に非ずして、別に其の職に当るの謂にして、大別当、
少別当、権別当、修理別当、留守別当、別当代等の別あり。而して僧侶に非ずして、別
に社職に当るものを俗別当と称す。凡そ別当の秩限は宮寺に因りて其の期を異にす、或
は六年を以てするあり、或は三年を以てするあり、或は将軍の更代毎に新陳代謝するも
のあれども、其の多くは父子師弟授受して、別に其の期なきものを以て常とせり。
別当の上に在るものを検校と為す。
 
検校ケンゲウとは、原来監督の謂にして、其の首座に在るものを修理検校と云ふ。修理は即
ち営繕を謂ふ、蓋し社祠の事たる。営繕を以て特に重しとするが故に検校の上首に此称
あるなり。
また座主あり、院主あり、並に検校と相上下するものなり。而して必ず別当の下に在る
ものを勾当コウトウと為す。
勾当は、別当を扶けて諸務を担当するものなり。其の下に専当あり。
専当は専ら社務の事を担当するものなり。勾当、専当に相並びて、御殿司及び入寺僧あ
り。御殿司オテンスは、多くは別当の進止する所に係り、寺任の少別当に准ぜり。初は鬮クジ
を探りて之を補せしが、後には必ずしも然らざるものあり。
 
入寺は御殿司の下に在りて、寺任の権上座に准じ、其の定員は十人とす。
凡そ御殿司、入寺僧は、倶に死闕あるに非ざれば改補するを許さず。若し識行共に優れ
るものある時は、特に権官一人を加ふることあり。御殿司、入寺僧の中、器量殊に勝れ
たる者一人を選びて以て執行と為す。
 
執行シュギャウは、即ち社務を執り行ふの義にして、其の職たる多くは別当の進止に係ると
雖も、宮寺の重任なりとす。
また学頭あり、執当あり、執事あり、脇堂あり、何れも其の職掌、若くは居処を以て其
の称と為したるものにして、或は文書を抄写し、或は雑務を執行するものなり。而して
社僧の最も下級に在るものを承仕ジョウジ、宮仕ミヤジ、職掌シキシャウ人等と為す。共に宮守堂
守の類にして、常に灑掃等の雑役に従ふものなり。
 
社僧の中、或る宮寺に限りて、特に之を設くるものあり、五師の八幡、春日に於ける、
目代の祇園に於けるが如き即ち是なり。後世に至りては諸社に御師と称するものあり。
御師オシは、蓋し御祈オンイノリの師の義にして、其の職の社司たると社僧たるとを問はず、総
て祈祷を行ふものをば、汎く之を御師と称せり。
 
凡そ社僧は多くは神宮寺に住するものにして、間々妻子を蓄ふるものあり、故に妻帯僧
にして、僧綱、若くは三綱に昇り、有職、所司等に任ぜらるゝものありと雖も、必ず清
僧の之と官位を同じくする者の下に居る。
然りと雖も宮寺は極めて権威ありて、中世以後、其の地位当に神職の上に在り。其の甚
だしきに至りては、私に戎器を蓄蔵し、動もすれば干戈を弄するものあり。
 
円融天皇の朝、男山八幡宮に行幸し給ひて、検校別当等を以て法橋に叙せられりしあり。
此後春日、大原野、日吉、祇園、北野、熊野、新熊野等の諸社に、行幸、御幸、若くは
行啓等の事ある時は、必ず寺家勧賞と称して、三綱以上の者には禄物を賜ひ、或は位階
を陞叙ショウジョするを例とす。
足利氏の時に在りては、男山八幡宮の社僧善法寺が、毎年正月十七日幕府に参賀し、翌
月九日、将軍また親しく同寺に詣するが如き、当時一定の例制たり。
 
此時代に在りては、両部神道と云ふ者、盛に神仏混合の説を唱へしかば、凡そ天下の諸
社にして社僧を置かざるもの殆ど之れ無きに至り。延きて徳川時代に及びしが、明治維
新の初、神仏混合を禁ぜられしかば、今は全く其の跡を絶つに至れり。
          注:本稿「社僧」の制は、現在は大幅に変わっています。SYSOP
 
権別当
榊葉に其いふかひはなけれども 神にこゝろをかけぬまぞなき
                     (新古今和歌集 十九神祇 法印成清)
 
検校
なぎの葉にみがける露のはや玉を むすぶの宮やひかりそふらん
                    (夫木和歌抄 三十四神祇 検校法親王)
 
つかへつゝ思ひしよりもみくまのゝ 神のめぐみぞ身に余ぬる
                     (新拾遺和歌集 十六神祇 僧正良瑜)
 
御師
思ひきやかまどの山にいのりして よその煙となさん物とは(経信卿母集)
 
補任
神もわがむかしの風をわすれずば 鶴がをかべのまつとしらなん(回国雑記 上)
 
[神宮寺]
神宮寺とは、神社に附属せる寺院の称なり、故にまた称して神宮院と云ひ、或はまた之
を神願寺、神護寺、神供寺などとも云へり。
多くは神社の境域内に建立せりと雖も、稀には遠隔の地に設置せるもの無きにあらず。
天台、真言の二宗、及び其の呪験の徒、若くは律、法華の二宗の僧侶等、常に仏事を修
して以て神に事ふ、之を社僧と云へり。
 
抑も神宮寺の起原たる、未だ之を詳にせずと雖も、元正天皇の霊亀の初に、藤原武智麻
呂が、気比の神の為に、神宮寺を樹てしは、蓋し史籍に見えたる始なるべし。
是より後諸国の名神大社大概之を設けざるはなく、否らざれば旧来の寺院を以て充てた
り。
仁明天皇の頃より、或は常住僧を置きて、度縁戒牒、一に国分寺に准ぜられ、或は正税
を以て寺料に当てらるゝものありて、漸く旺盛に趨けり。
彼豊前国宇佐弥勒寺の如きは、蓋し当時に在りて同国の国分寺を以て之に充てしものな
らん。
 
鎌倉室町両幕府を経て豊臣徳川両氏の時に至り、猶ほ之を新造し、若くは之を再興する
ものありしが、明治の初年、堅く神仏の混同を禁ぜしと共に、神宮寺はまた神社の事に
関せざるに至れり。
 
大和国石上神宮寺
いそのかみふるきみやこのほとゝぎす こゑばかりこそむかしなりけれ 
                         (古今和歌集 三夏 そせい)
 
いそのかみなにおふてらのかねのおとに ふるくなるよを聞ぞかなしき
                       (夫木和歌抄 三十四釈教 為家)

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