08a 祓禊・大祓・御贖節折・六月祓・臨時大祓
 
祓具
おぼつかなつくまの神のためならば いくつのなべのかずはいるべき
                    (後拾遺和歌集 十八雑 藤原顕綱朝臣)
 
撫物
みし人のかたしろならば身にそへて 恋しきせゞのなでものにせん
                            (源氏物語 五十東屋)
 
人形
しらざりしおほ海のはらにながれきて ひとかたにやはものはかなしき
                            (源氏物語 十三須磨)
 
夏草にはらへかくれば人がたの あまづつみとは露やおくらん
                           (夫木和歌抄 九夏 順)
 
身はすてゝ人がたとだに思はぬを なにゝすがぬくみそぎなるらん
                       (久安六年御百首 待賢門院堀川)
 
蒭霊
さはべなるあさぢをかりに人にして いとひし身をもなづるけふ哉
                       (堀河院御時百首和歌 夏 俊頼)
 
みそぎすとしばし人なす麻のはも 思へばおなじかりそめの世ぞ
                     (夫木和歌抄 九夏 前中納言定家卿)
 
菅
なゆ竹の とをよる皇子ミコ さにづらふ 吾が大王オホキミは(中略)天なる さゝらの小
野ヲヌの 七相菅ナナフスゲ 手に取り持ちて 久堅の 天の川原に 出で立ちて 潔身ミソギ
てましを 高山の 石穂イハホの上に い坐マせつるかも(萬葉集 三挽歌)
 
真葛マクズはふ 春日の山は(中略)かけ巻くも 綾に恐カシこし 言イハ巻くも ゆゆしき
からんと 予アラカジめ 兼ねて知りせば 千鳥鳴く その佐保川サホカハに いそに生ふる
菅根スガノネ取りて しぬぶ草 解除ハラヘてましを 往く水に 潔ミソギてましを(下略)
                              (萬葉集 六雑歌)
麻
おほぬさの引手あまたに成ぬれば 思へどえこそ頼まざりけれ
返し
おほぬさとなにこそたてれながれても 終によるせは有てふ物を
                            (古今和歌集 十四恋)
 
おほぬさの引手あまたにとまらねば 思へどえこそたのまざりけれ(奥儀抄 下)
 
みそぎする川のふちせに引あみを おほぬさなりと人やみるらん(能宣朝臣集)
 
夏引の麻の大ぬさとりそへて 百官のみそぎすらしも
                       (年中行事歌合 大蔵卿坊城長綱)
菅抜
我妹子がうちたれがみの打なびき すがぬきかくる夏祓哉(源朝臣師頼卿)
八百万神もなごしになりぬらん けふすがぬきの御祓しつれば(藤原朝臣仲実)
千年まで人なからめや六月の みたび菅ぬきいのる御祓に(阿闍梨隆源)
                          (堀河院御時百首和歌 夏)
 
解縄
おもふことあさぢのなはにときつけて 清き川せに夏ばらへしつ
                         (久安六年御百首 隆季朝臣)
 
雑載
君により 言コトの繁きに 古郷フルサトの 明日香の河に 潔身ミソギしにゆく
                              (萬葉集 四相聞)
 
玉く世セの 清き河原に 身祓ミソギして 斎イハふ命イノチも 妹がためこそ
                               (萬葉集 十一)
 
時風トキツカゼ 吹飯フケヒの浜に 出でゐつゝ 贖アガふ命は 妹がためこそ
                               (萬葉集 十二)
 
なかとみの ふとのりとごと いひはらへ あがふいのちも たがためになれ
                               (萬葉集 十七)
 
君なくてあしかりけりと思ふにも いとゞ難波の浦ぞ住うき(拾遺和歌集 九雑)
 
[大祓]
大祓オホバラヘ・オホハラヘは、毎年六月十二月晦日、皇城の朱雀院にて行はる。乃ち百官男女よ
り始めて、天下万民の不知不識の間に犯せる所の、種々の罪穢を除き去らんが為に行な
はるゝを以て大祓と云ふ。
今大宝の制、貞観の儀式、延喜の式に拠りて考ふるに、此日宮中にては、中臣御麻を奉
り、東西文部祓刀を奉り、漢音の祓詞を読む。大臣以下百官男女悉く祓所に会し、神祇
官切麻を五位以上に頒ち、中臣祓詞を読み、祓へ訖りて後、六位以下をして大麻を引か
しむ。
其の儀極めて厳なりしが、円融天皇の朝に至りては、公卿にして祓所に詣る者一人もな
く、内侍等もまた参会せず。
是を以て右少弁を以て上卿代とし、女史を以て内侍代として僅に之を行へり。
 
時に延喜を距ること未だ百年を出でずして、而して其の衰頽せること此の如し。
延て嘉吉文安の頃までは、尚ほ其の式を存したりしかども、応仁の大乱以後は、終に全
く廃絶したり。
東山天皇の元禄四年に至りて、再興せられたれども纔に其の式を挙げたるのみにて、旧
制の如くならず。乃ち内侍所の西庭に於て之を行ひ、吉田家其の事に従ひ、其の名称も
また内侍所清祓と云ひて、大祓と云はず。
或説に清祓と称するは、凶事の後の祓を大祓と称するによりて、之を諱みたるものなら
んと云へり。或は然らん。
 
此篇には恒例二季の大祓に関するものゝみを収め、其の他御贖、節折、六月祓、臨時大
祓の如きは此篇に附せり。また大嘗祭の御禊大祓は大嘗祭篇に、斎宮斎院の御禊大祓は、
伊勢斎宮賀茂斎院の二篇に収めたり。宜しく参看すべし。
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