06 鎮魂祭・招魂祭・鎮火祭・鎮花祭・道饗祭・大殿祭
 
[鎮魂祭]
鎮魂タマシヅメ祭は、天皇の御魂を鎮安し、以て御世の延長を祈り奉る祭なり。
神武天皇元年、宇摩志麻治命が、其の父饒速日命の、天より将来せし十種の瑞宝を献ぜ
しを以て起原とす。
史に天武天皇の元年十一月、天皇の為に招魂すとあるは、即ち鎮魂祭なり。
文武天皇の令を制するに至りて、日時を定めて十一月中寅の日を用ゐらる。其の祭神は、
神魂、高御魂、生魂、足魂、魂留魂、大宮売、御膳魂、辞代主、大直日の九座にして、
祭場は宮内省の庁に設く。但し本省事故ある時は、神祇官に於て行はる。
 
当日神祇官の笛師は笛を吹き、琴師は琴を弾じ、神部及び雅楽の歌人は、相和して歌ひ、
御巫は拍子に随ひて舞ふなり。既にして御巫は宇気槽を覆せ、其の上に立ちて、桙を以
て撞くこと十箇度、度ごとに神祇伯は御玉緒の糸を結ぶ。女蔵人も節に応じて、御衣の
筥を持ちて振り動かす。
此日中宮にもまた此祭あり。東宮にては中巳の日に之を行はる。
後世には上皇宮にてもまた之を行はれたり。
 
中古令制廃れてより、鎮魂祭の儀も大に往時と異なり、加之宮内省神祇官も荒廃しけれ
ば、纔ワヅカに其の旧地に仮幄を設けて之を執行せらる。
而して後花園天皇の文安宝徳の頃までも、尚告朔の気(食偏+気)羊キヤウを存せりしに、
其の後遂に中絶せしことを幾と三百五十年、光格天皇寛政九年に至りて再興せられたり。
 
鎮魂歌
いそのかみ ふるやをとこの たちもがな くものをしでゝ みやぢかよはむ
                                  (鎮魂伝)
 
[招魂祭]
招魂祭タマヨバヒノマツリは、遊離の魂を招き還すの意なり。
毎日之を行ふあり、日を限りて行ふあり、事変に臨みて行ふあり、或は重病に瀕したる
時行ふあり、或は死後其の人を蘇生せしめん為に行ふあり。
この祭は多く陰陽家の行ふ所なりと雖も、要するに鎮魂祭の一種なるを以て此に附す。
 
たまむすび
思ひあまり出にし玉の有ならむ よふかくみえば玉むすびせよ(伊勢物語 下)
 
なげきわび空にみだるゝわがたまを むすびとゞめよしたがひのつま
                              (源氏物語 九葵)
 
あくがるゝわがたましひもかへりなん おもふあたりにむすびとゞめば
玉しひのかよふあたりにあらずとも むすびやせまししだへのつま(狭衣物語 三下)
 
たまはみつぬしはたれともしらねども 結びとゞめよしたがひのつま(袋草子 四)
 
雑載
今さらに忍びぞわぶるほとゝぎす もとつ人よとねのみなかれて
身からこそとにもかくにもあくがれめ かよはむたまのをだみだにする
世にもみなあくがれにたるたまなれば うらなきつまにとまる物かは(馬内侍集)
 
[鎮火祭]
鎮火祭ヒシヅメノマツリは、火災を防がん為に火神を祭るなり。
太古伊弉冉尊、火神軻遇突智を生みたまひし時、火神の国土人民に害を為さんことを慮
り、水神匏川菜埴山姫を生みて以て之に備へたまふことあり。
鎮火祭蓋し此に原づく。
 
[鎮花祭]
鎮花祭ハナシヅメノマツリは、即ち季春を以て、大神狭井の二神を祭り、以て疫気を鎮遇するな
り。
蓋し春花の飛散する頃は、疫神分散して癘を行ふが故なりと云ふ。
 
のどかなる春のまつりの花しづめ 風をさまれと猶いりるらし
                   (新拾遺和歌集 十六神祇 関白前左大臣)
 
[道饗祭]
道饗祭ミチアヘノマツリは、六月十二月の両度、京城の四隅に八衢比古、八衢比売、久那斗の三
神を祀りて鬼魅の外より来る者を京城外に駆逐せしむる祭なり。
 
京城の四隅にて疫神を祭るを四角祭と云ひ、国の四境にて疫神を祭るを四境祭と云ふ。
共に鬼魅を駆逐する所にして、陰陽道の祭なり。後世鎮火を四角、道饗を四境とし、混
じて云ふ者あれど是ならず。
鎌倉幕府に於てもまた此祭あり。
 
[大殿祭]
大殿祭オホトノホガヒは、屋船久久遅命、屋船豊宇気姫命、及び大宮売神を祭る。宮殿の災異
なからんことを祈るなり。
此祭は、太古瓊瓊杵尊の時、斎部の斎斧を以て材木を伐採して、瑞の御殿を造りしに起
り、神武天皇の時、手置帆負彦狭知二神の孫、正殿を興しゝもの之に継ぐ、故に古より
斎部氏の掌る所なりしに、中間中臣氏に移りしかども、清和天皇の貞観に至りてまた旧
に復す。
凡そ此祭は、神今食新嘗祭大嘗祭等の前後、若しくは皇居の遷移、斎宮斎院卜定の後等
に於てするものなり。

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