05 新嘗祭・相嘗祭
 
[新嘗祭]
新嘗祭ニヒナメマツリ・シンジャウサイは、朝廷恒例の祭典中に在りて中祀とす。
天皇の新穀を喫し給ふに就きて、先づ之を神祇に供し給ふものにて、其の儀大略神今食
に同じ。其の異なる所は、旧穀を用ゐずして新穀を用ゐ、幣帛を頒ち、節会を行ふ等に
在り。其の他斎戒を厳にし、忌火御飯及び御贖物を供し、忌火庭火祭あり、大殿祭あり、
式畢て解斎を行ひ、及び職員を卜定する等の事は、全く神今食に同じく、また幣帛を頒
ち、神官を戒飭する等の事は、祈年祭に同じければ、共に此に略して彼に詳にせるもの
多し。
 
祭日は大宝令に、十一月下の卯日(三卯あれば、中の卯日を用ゐらる)と定め、時刻は、
嵯峨天皇の弘仁十四年に、神今食と共に戌の一点より卯の二点と制定せり。
抑も新嘗祭は、独り天皇の行はせ給ふのみならず、古は皇太子大臣より庶人に至るまで、
各々自ら之を行ひしものにて、太古神代に在りて、天照大神の之を行はせ給ひしは、後
世天皇新嘗の起原にして、天稚彦の之を行ひしは、即ち庶人新嘗の初見と云ふべし。
降りて景行天皇の朝に十一月の新嘗会ありしこと、年中行事秘抄に引ける高橋氏文に載
せたれども、日本書紀には見えず。
当時既に十一月を以て例と為しゝにや、仁徳天皇四十年中行事紀に、新嘗之月とあるが
如きは、其の月の既に定れるが如し。
清寧天皇三年十一月戊辰の宴を類聚国史に新嘗に載せて、二年十一月の大嘗を載せざる
は、此文は大嘗に収めたりしが、巻首の欠けたる故に逸したるなるべし。
 
果して然らば清寧天皇は元年正月の即位なれば延引したるものにて、即ち大嘗祭の一朝
の間に並び行はれたる始なり。然れども当時は、或は延引して他の月を用ゐしことあり。
用明天皇二年四月丙子、舒明天皇十一年正月乙卯の如き是なり。
而して用明天皇の新嘗は、或は大嘗を謂へるにてもあるべし。
皇極天皇以後は必ず十一月を以て行ふ。其の元年の新嘗は是も大嘗を謂へるものか。
天武天皇二年十二月に、大嘗に従事せし神官国郡司等に禄を賜ふことあり。蓋し此大嘗
は其の十一月に行はれしものにて即ち践祚の大嘗なるべし。五年に新嘗の為に国郡を卜
することあり、六年十一月己卯に新嘗を行ふことあり、是に於て大嘗新嘗の区別稍々明
なり。
要するに、是より前なるは大嘗の如く思はるゝものも、其の実は果して如何なりしかを
知らざれば、今は皇極天皇より以前なるをば都て此篇に収めたり(大宝令、延喜式共に
新嘗を大嘗と記し、政事要略に引ける弘仁貞観の中格式にも大嘗とあり、北山抄にも即
位の大嘗、毎年の大嘗とあり、蓋し此等は何れも旧文に拠りて記しゝものか、続日本紀
以下の国史には判然として別れたり)。
 
抑も新嘗は朝廷の大典にして天皇の親祭し給ふ所なれども、後世に至り或は親臨したま
はざる事もあり、殊に鳥羽崇徳二天皇の朝には、二十余年間行幸の儀絶ゆるに至れり。
されば宇多天皇は、新嘗会神今食等には必ず中院に行幸して其の儀を行ふべしと遺誡し
給ひ、崇徳天皇の朝藤原敦光もまた上表して、親祭の事を請へり。
而して幼主若くは大嘗会以前、また物忌触穢諒闇等の時は、多くは出御なきを例とし、
或は全く停止せらるゝ事もあり。
加之朝綱の弛廃、用途の欠乏と共に、祭儀も旧の如くならず。
 
後花園天皇の寛正以後二百二十余年間は全く中絶せしを、東山天皇の貞享五年に至り、
新嘗御祈と云ふ事始まり、爾後毎年吉田の神祇官代に於て此事あり。朝廷にては其の度
毎に僅に神饌を供せらるゝに過ぎず。
次で桜町天皇の元文四年に再興の儀ありしも果さず、翌五年に至り始めて旧儀を再興せ
られてより以後今に絶ゆることなし。
 
豊明節会は新嘗祭の翌日辰日に行ふ。即ち新嘗会なり。天皇出御ありて、内膳司御膳を
進め、太子以下群臣に各々饗饌及び禄を賜ふ(別に平座とて略儀あり、天皇出御なし、
後世節会を停むる時多く平座を行ふ)其の間吉野国栖は御贄を供じ、歌笛を奏し、治部
雅楽の工人は立歌を奏し、大歌別当は歌人を率ゐて五節の歌を奏し、舞姫参入して五節
を舞ふ。五節舞は天武天皇の朝に起り、其の後新嘗大嘗の節会には必ず此舞あり。予め
女御殿上人、及び受領等を点定して舞姫を献ぜしむ。定額四人なり(大嘗会には五人)、
然れども其の服装調度等何れも自弁にして、且つ互に華美を競ひしかば、其の費活繁に
して負荷に堪へ難く、後には事故に託して進献を辞するに至れり。
 
されば宇多天皇は、公卿及び女御をして互に輪転して献ぜしむる制を定め給ひ、延喜十
四年に、三善清行は上奏して、良家の子女二人を定めて舞姫とし、其の用度は総て官費
を以て支弁せんことを請へり。然れども遂に用ゐられず。
其の後、冷泉天皇の安和二年に至り、藤原斉敏等の上奏に由りて、舞姫を献ぜし大臣参
議等には特に年給を賜ふことゝなれり。然りども猶ほ費用多かりしかば、舞姫の衣服を
其の所親に請ひ、或は院宮等より賜ふことあり。其の他の人々よりも、衣食調度を五箇
所に贈るを例とせり。また舞姫を献ぜしものゝ官位を進むることあり。舞姫の参入は丑
日にして、此夜帳台試あり、寅日御前試あり、卯日童女御覧あり、村上天皇の朝に始ま
る、何れも其の技を試み給はんが為めなり。また寅日及び卯日は淵酔とて、卿相雲客殿
上に参集して、献酬朗詠等の事あり。次で五箇所を訪ひ、或は院宮等に推参して、酔舞
放吟するを例とす。
 
其の他新嘗祭には、節会に用ゐる白黒の酒稲を卜定するのみならず、古は斎忌ユキ次スキの
国を卜定して、供御の稲粟を奉らしめたり。
祭殿はもと神嘉殿なりしを、後世は専ら神祇官にて行ひ、また宮内省にて行はれしこと
もあり。元文の再興以後寛政造内裏迄は、紫宸殿代を神嘉殿代として行はれたり。
節会の殿は、淳和天皇天長七年には内裏にて行ひ、文徳天皇天安元年には冷然院にて行
ひしかども、此等は異例にして、通常豊楽殿、又は紫宸殿にて行はれ、清和天皇の貞観
以後は、紫宸殿にて行ふことを恒例となれり。
天皇の御服は、祭日は帛の御衣にして、帳台試には必ず直衣指貫なり。職員の服制は、
文武官各々一様からざれども、王卿以下は祭日には青摺の布袍及び日蔭鬘を著け、また
祭日節会の日は、共に小忌を著くるを例とす。
[次へ進んで下さい]