04 月次祭・神今食祭
[月次祭]
月次祭とは、月毎に祭るの謂にして、其の祭幣を六月と十二月との二季に諸社に奉幣し、
以て国家の静謐、聖体の福祉等を祈請する祭儀なり。
此祭は中祀にして、其の祭神は総て三百四座あり。即ち祈年祭に案上幣に預る神にして、
新嘗の祭神と全く同じ。
此祭の史に見えたるは文武天皇の大宝二年七月を以て始とす。
蓋し祈年祭と月次祭とは、大に相同じきものありて、其の祝詞も祈年の一項を加ふると
加へざるとの差あるに過ぎず。
祭儀の如きは全く同一にして、当日神祇官以下諸司の官人参集して、中臣祝詞を宣し、
伊勢以下諸社の幣帛を頒つこと祈年祭と異なることなし(但し供神料物は少異あり、月
次祭には御年神に鶏猪を進むることなく、神馬も大神宮、度会宮、高御魂神、大宮女神
の外は進献せず)、其の他諸社の祝部の懈怠を戒め、或は頒幣に就きて種々の制度を設
けしことなど、祈年祭の制度の月次祭に同じきもの尠からず。故に此等は何れも祈年祭
の篇に収録したれば、此篇には総て略せり。
月次祭は、毎年六月と十二月との十一日に行ふを以て例とす。然るに一条天皇の寛弘元
年六月に、十日を以て之を行ひしは蓋し異例なるべし。
其の祭場は、常に神祇官にて行へども、時に在るは中和院にて行ふ事もあり。而して此
祭の訖る後には、天皇必ず中和院に御して、神今食ジンゴンジキを行はせ給ふ。若し触穢
ショクエ等に由りて神今食を延引し、若くは停止することある時は、月次祭もまた共に延引
し、若くは停止せり。
後世に至るに及び、月次祭は兵乱、或は用途の不足等に由りて、為に延引若くは停止す
ることも多く、且つ其の頒幣の如きも、伊勢大神宮のみに限りて、他社には殆ど其の例
無きに至り、遂に応仁の大乱を経て神今食と共に全く廃絶に帰せり。
夏のくれ年のをはりの月毎に 報賽カヘリマヲシの神の幣帛ミテグラ
(年中行事歌合 宗明朝臣)
[神今食祭]
神今食祭カムイマケ・ジンゴンジキは、六月十二月月次祭の夜、天祖天照大神を神嘉殿に請じ奉り
て、天皇親ら火を改め、新に炊ぎたる飯を供じ給ひ、また親らも喫し給ふ祭にして、大
略新嘗祭に同じ。其の異なる所は、彼は新穀を以てし、此は旧穀を以てするに在り。
而して此儀の史に見えたるは、桓武天皇の延暦九年を以て始とすれども、二十二社註式
及び公事根源等には、霊亀二年六月に始まるとし、本朝月令に引ける高橋氏文にも、ま
た同年十二月に神今食を行ひしこと見えたれば、元正天皇の頃より、既に一年両度の神
今食ありしこと知るべし。
凡そ祭祀に前後の斎戒あるは常例なれども、神今食の時は、特に其の月の一日より神事
ありて、忌火御飯、御贖物等を供じ、僧尼重軽服の人の参入を許さず。
また祭の翌日には忌火庭火祭を行へり。
当日は神座及び御座を敷設し、打払筥を執るものあり、坂枕を舁ハくものあり、寝具を奉
ずるものあり、夕御膳あり、暁御膳あり、其の明日には大殿祭あり、解斎儀あり、是等
の事は、大略新嘗祭に同じければ、互に参看すべし。
神今食は六月十二月の十一日、月次祭畢りて後に行はる。
但し月次祭は神祇官に於てし、神今食は中和院の神嘉殿に於てするを以て例とす。故に
中和院を、一に神今食院とも称す。然れども時に或は神祇官、若くは中和院に於て共に
行なはるゝこともあり。
後世は触穢其の他の事故に由りて、中和院に行幸し給ふこと稀なりしかば、神今食をも
多くは神祇官にて行へり、また宮内省にて行はれしこともあり。清和天皇の貞観十四年
六月、及び宇多天皇の寛平元年の如きなり。
若し月次祭の延引、或は停止せらるゝことある時は、神今食もまた共に延引停止せらる。
其の祭儀に従ふ職員の如きも、月次祭に供奉する官人の神今食を兼ぬる事も多くして、
此両祭は互に相関係せるものなれば、事の月次祭と相連れるは彼篇に出して、此篇には
多く省略に従へり。
抑も神今食は、前にも陳べし如く天皇の御親祭なれども、触穢方忌、及び職員の不参、
若くは諒闇等の時は、天皇出御し給はずして、多くは所司に付して事を行はしめらるゝ
ことあり、鳥羽天皇の天仁元年以降二十余年間は親祭の礼中絶し、崇徳天皇の長承元年
に至り、再興の議ありしかども、偶々物忌に由りて果さず。
継で保延元年には藤原宗忠同敦光等祭祀の漸々衰ふるを慨きて、親祭を奏請せしことあ
り。
其の後朝綱の弛廃と共に益々衰微に趨き、応仁の大乱以後は、月次祭と共に終に全く挙
行せざるに至れり。
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