03a 祈年祭・祈年穀奉幣
 
[祈年穀奉幣]
祈年穀は、其の義祈年と全く同じ。唯其の名を変じて以て別つに過ぎず。また年穀の豊
稔を祈るなり。
而して祈年祭は神名帳に載せたる諸神を尽く祭るなれど、是は大神宮及び近京有名の諸
社に奉幣するなり。
祭神は其の始一定せずして、村上天皇天徳三年七月には、伊勢、石清水、賀茂、松尾、
平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上、大和、広瀬、龍田、住吉、丹生、貴布禰の十
六社に奉幣あり。
一条天皇正暦二年八月の奉幣には、吉田、広田、北野、梅宮を加へて二十社とし、同長
保二年二月の奉幣には、祇園を加へて二十一社とし、同寛弘六年二月には、更に日吉を
加へて、二十二社に奉幣せられたり。
されど其の後日吉社は時により或は除くこともありしが、白河天皇の永保元年より、永
世二十二社の列に加へ、祈年穀には必ず二十二社に奉幣することとなれり。
 
祭日は定らず、吉日を択びて行ふことを例とす。祭月は大凡毎年二月七月の両度と定め
たれども、或は然らざることあり。蓋し此祭の恒例となりしは、一条天皇以後にして、
古は全く臨時なりしかば、後世に至りても必ずしも二月七月に限らざりしは、自ら此風
の存せるなるべし。
加之、触穢及び用途の不足等に由りて延引する事多く、甚しきは春時の奉幣にして七月
に行はれし事あり。秋時の奉幣の十二月に延引せし事もあり。一条天皇の長保三年、後
花園天皇の文安元年の如きは此例なり。
 
奉幣使を発遣するには兼日先づ奉幣定あり、上卿以下陣に就き、日時の勘文、幣使の差
文、及び宣命の事等を議定して奏聞す。後世は多く当日に行ひたり。
祭日には八省院を装飾し、内侍以下女官来て幣帛を裹み上卿以下各々入りて其の座に就
き、伊勢使以下諸社の幣使を召して、順次宣命(宣命の用紙、伊勢は緑紙、賀茂は紅色、
其の他は黄紙なり)を授けて、各々其の社に発向せしむるなり。
伊勢使を発遣したる後、天皇紫宸殿に於て御拝の儀あり。御物忌の時は、石灰壇にて行
はる。また天皇八省院に行幸の時は、伊勢使の発遣を待ち給ひて後に還御あり。
而して伊勢の幣使は、特に諸王一人を卜定し、中臣忌部をして之に従はしめ、其の他賀
茂、松尾、平野は各々参議及び五位、石清水、稲荷は各々四位、丹生、貴布禰は各々神
祇官の六位、自余は各々五位を任ず。但し石清水は源氏、春日、吉田は藤原氏、梅宮は
橘氏、北野は菅原氏を選定する例なり。
 
然るに此等の幣使、後世は一人にして数社を兼ぬるのみならず、多くは疾病事故を称し
て、発遣を辞せしかば、祭事を廃闕するを以て、屡々譴責を加ふれども、多年の因襲改
むるに由なく。また幣料の如きも、諸国に課して調進せしむる例なりしが、後世に至り
ては、毎に督促すれども、多くは徴収に応ぜず、或は前夜督促して、当日僅に弁済せし
めたることあり、或は当日刻限に臨みて幣物猶具せざりしかば、已むことを得ず。
他の用途を借りて僅に補充したることあり。
此等の流弊も恬として異まざるに至れり。
 
抑も此祭の初見は、天武天皇の四年なりとの説あれども、其の明文の史上に見えたるは、
醍醐天皇の延喜二年にして、其の恒例の如くなりしは、また降りて一条天皇以後なりと
す。且其の祭式の如きも、儀式等の古書に載せずして、江家次第に始めて詳なるを見れ
ば、此祭の後世に至りて盛なりしこと自ら明なり。
然れども前に述べたる如く、幣使の懈怠幣料の不足等によりて、後漸く衰頽に趨き、後
花園天皇の文安年中には暫く絶えたりしが、武家の執奏に由り、再び行はるゝこととな
れり。
されど久しからずして争乱の世となり、朝威益々衰へしかば、祈年祭と等しく遂に廃絶
せり。

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