83a 第二章 哀惜さるゝ老将軍の不時の死による深遠厳粛なる同感的な宗教心の目覚め
 
 第二節 乃木聖雄の日常生活における厳格厳正なるストア風の訓練
 
 周知のように、幼少時代の乃木希典(1849〜1912)は長州において、その両親並に叔
父であり師である玉木文之進の厳格な武士道的教育、即ちストア派とは異なる日本武士
道の教育を受けたのである。聖雄は儒教と日本学に関する山鹿素行先生の意見並に儒教
を基礎として、これを批判折衷した吉田松陰先生の愛国的な意見に興味をもち、又それ
等の感化を受けられた。素行先生の中朝事実即ち日本歴史と、松陰先生の士規七則即ち
日本武士道徳七つの戒律は乃木聖雄には一生を通じて聖書であり経典であった。乃木聖
雄は生涯の大部分を軍隊生活で君と国とに捧げられた。特に西南の役、及び日露の役に
おいて。更に台湾総督として、東京の学習院長として国家に尽くされた。聖雄の道徳的
精神的な感化力は世に並ぶものが無いと云われている。
 
 このように、賢明で良く訓練された乃木聖雄は、その幼少時代から厳正な道徳の中で
の厳正な訓練を受けることに依って、己れを教育する為のあらゆる機会を善用すること
を誤らなかった。そして一歩一歩より高いより高尚な人格を創造することに成功した。
これに依って、聖雄は遂にその人格を完成して、神の座につくに到ったのである。これ
は実に勇猛な精神の不断の自己訓練の結果である。屡聖雄の訓練は厳格な禁欲主義とな
るほどのものであった。聖雄は俗人ではあったが、全く無欲で、印度の苦行僧の如くに
自己を否定した。遂に聖雄は、仏教徒が涅槃と呼ぶような平静な真の聖者の域に達した
のである。限り無い慈悲と博愛の心の底から咲き出た広大なる慈悲に満ち溢れて、聖雄
はこの世の欲望や憂慮の枷から全く抜け出たのである。このような乃木聖雄の神の如き
人格は神そのものに外ならない。即ち神である人又は神人であり、神の権化であり、基
督教の第四福音書にあるようなロゴスの権化であり、仏教哲学の云う仏陀又は絶対仏で
ある。神道神学では、これを神即ち最高の存在と呼ぶ、即ち神道の文明教期の段階にお
ける意味での神であるる
 
 人間から神になるまでの乃木聖雄の生涯を巡礼して来たのであるが、更に一八七七年
明治十年の西南の役に立ち帰って、当時の聖雄を眺めよう。乃木聖雄は官軍に属し、小
倉の連隊長として大西麾下の反軍と九州の植木で血戦をしたのである。この激戦中連隊
旗手河原林少尉は戦死し、乃木連隊長は重傷を負うて、長い間戦場で意識を失って横た
わっていた。このようにして、連隊旗は遂に敵の手に帰した。乃木聖雄は、連隊旗が敵
に奪われたと聞いた時、慨然として浩歎し、遂に死を以てその罪を謝せんと決意した。
しかし、最高軍法会議は無罪を宣して、一切の責任を解除した。けれども、乃木聖雄は
この決定を心から受け入れることは出来なかった。それは余りにも法律的であり、形式
的であると思った。聖雄の良心の声は、断然これを斥けた。その後聖雄の良心は常にさ
さやいた。「ああ、乃木よ、汝は法律上の責任は無くとも、道徳上の責任は免れない。
」と。これは聖雄の全生涯を通じての堅い信念であった。自分には、道徳的精神的責任
があると云う、この確乎不動の信念が聖雄の心中に起ったその瞬間に、精神的乃木聖雄
が誕生して − 血肉を備えた人間として吾等の目には映じて居たが − 古い乃木は死ん
だのである。人間乃木は一八四九年に生まれた。聖雄は一八七七年、道徳上赦し難い過
失に対して死を決した時に再び生まれたのである。この道徳的自我即ち目に見えぬ精神
的乃木聖雄、神たる乃木聖雄神光赫如たる乃木聖雄は即ち地上の神そのものに外ならな
いのである。連隊旗を敵に奪われたと云うことは、実に聖雄の生涯において最も大きな
画期的な事件であったのである。それは実に青天の霹靂の如くにやって来たのである。
かくして、古い人間乃木は最早や亡くなった。その代りとして、神性をもった新人が吾
等の眼前にすっくと立ち上がったのである。
 
 精神的な乃木聖雄の第二の誕生の意味は、釈迦牟尼仏の宗教史上の光に照らして見る
とよく分る。釈迦の精神的な自己革命即ち啓発によって仏陀覚者の域に達したのは、実
に突然で、宗教にゆかりの深い菩提樹下で独坐瞑想していた時に暁の明星を見て覚った
のである。それは釈尊が二十九才で出家して、六年の苦行を経て、三十五才の時であっ
たと云われている。
 他の同様な霊は黒住宗忠大人(一七八〇 − 一八五〇)に見られる。神道黒住教の教
祖である宗忠大人は長年の肺病で重態であった。一八七四年、三十五才の時、冬至の朝、
日出を拝んでいた時、大人は心身ともに目覚めて、長年の病気から完全に回復したので
ある。
 
 乃木聖雄の場合も全く同様であると思う。唯一の違いは、釈尊は自覚していたと云う
ことである。お経にもあるように、釈尊は心の啓発即ち自分が仏陀になったと云うこと
を経験しているのである。比較宗教学上の言葉で、有神論的に云えば、釈尊はその瞬間
に自分が神であると云う意識に自から到達したのである。それ故に、彼の弟子達、かの
有名な五人の修道僧達は初は釈尊にたよることを拒んだ程である。その上に、弟子達は
神そのものである絶対仏同様に、歴史上の仏陀を崇拝したのである。哲人達は、それを、
実在、絶対者、不知者等々と呼ぶかも知れない。原始仏教では、歴史上の仏陀が宗教上
の象徴である永遠なる者(神)を代表している。同時に黒住宗忠大人は一八四六年六十
七才の時に或る歌の中で、神としての自意識をはっきり示している。大人が四国伝道旅
行に岡山から出発された時、小串沖で暴風雨にあって、既に危かった時に、次の歌を詠
んで居られる。
 
  波風をいかで鎮めむわだつみの 天つ日を知る人の乗りしに
 
大人の宗教信念に従えば、心が全く純真である大人は、至誠、誠実、正直即ち神をその
もの、日の神である。大人のこの神道信仰こそは、正に大人の神としての自意識である。
それから、この同じ信仰即ち「我れは神の子なり。」と云う一種の神格意識の自覚は、
学者専門家の間では、色々と異説も有るようではあるが、キリストにおいても等しく見
られると思うのである。
 
 乃木聖雄の場合は、多少これと異なっている。聖雄は自己覚醒とか自意識とか云うよ
うな霊感はなかったように思われる。否、聖雄は己れを神と感ずる代りに、単なる賎し
い者と考えて居られたのである。聖雄はその一切を挙げて犠牲とされた死に到るまで、
このような空な不敬極まる慢心は夢想だにされなかったのである。しかしその時に吾々
は、聖雄の没我的な気高い超人的な行為を通して、その人間性の中に聖雄の神性をはっ
きりと見て取ったのである。ここに私達は確実に聖雄の神性を信じ得るのである。聖雄
が喜んで己れを捧げ尽した後、即ち倫理的に最高の意味で進んで己れを犠牲にされた死
の後において、その神々しい栄誉を現わすものとして、神社が創建されたのである。
 
 こういう訳であるから、神光赫如たる乃木聖雄について、英雄崇拝の形式で一つの宗
教が起ったとしても、別にあやしむに足りない。宗教上から、この点を明らかにするた
めに、次の説明を加えたいと思う。
 
 古代ペルシャの宗教上の大予言者であり、聖者であったザラッシュトラ(ゾロアスタ
ー)は云っている。「土地を耕したり、穀物の種を播いたりして、力の限り一生懸命野
良で働いているお百姓さんをごらんなさい。彼は実際、地上に種を播いているのですよ
」と。偉大な宗教上の天才であるザラッシュトラは、宗教と云うものは、かの皮相者流
の求めているようなところでは決して発見されないと云う大真理を知っていたのである。
真面目に働いている人々の間には既に立派な宗教があったのである。即ち彼等の宗教は、
その日常生活の中にあったのである。私たちは容易に安全に次のように云い得るのであ
る。即ち、宗教と云うものは、古代ペルシャの予言者の指摘したように、宗教は教会よ
りも市場にあり、壮麗な大伽藍の祭壇にはなくて、むしろ繁華な町の俗人の店の中にあ
り、辟地の貧農の小屋の中にある。ザラッシュトラは古代において、その深い宗教上の
洞察力によって、この永遠の真理を吾等に示しているのである。
[次へ進んで下さい]