82a 第一章 神道と他の諸宗教
 
 第三節 宗教 − 族制教と普遍教
 
 大抵の読者は「普遍的宗教」と云う語を度々耳にされたことでしょう。そして仏教、
基督教及び回教がこの型であることもご存じの通りです。どんな人種でも、どんな国民
でも、全て人々は己れの自由意志で、これ等を信仰することができる。そして信心深い
人々は、もっと多くの信者を得ようとして、その宣伝に努めるのである。彼等の訴えは
国際的であり世界的である。そこで、これ等を普遍的宗教と呼ぶ訳である。これ等を受
入れようと、受入れまいと、その決定は各個人の自由選択によるから、これを人々の宗
教即ち個人教と呼ぶ訳である。
 
 普遍的宗教に対して、性質上特殊な局部的な、即ち族制的な宗教がある。これ等の信
仰を奉ずる人々は、個人の自由選択によるのではなくて、或る地域社会の一員として、
それを奉ずるのである。彼等にとっては、宗教上の信仰はその地域社会全体としての仕
事なのである。それは、その地域社会のために、又その地域社会によってのみ存するの
である。その単位は個人ではなくて、地域社会なのである。普遍的宗教では宗教上の信
仰は一つの私事として扱い、直接個人に訴える。ところが族制的宗教では、信仰を公事
と見倣す。即ちその地域社会の各員の共通的な関心事としてではなく、その地域社会全
体の関心事と見倣すのである。
 
 特定の人種、氏族又は社会的階級に生まれたと云うようにことは、普遍的な宗教の信
者にとっては全く問題ではない。別にこれと云う制限は無い。人々は信仰については割
合に自由が与えられている。ところが、特殊な部族的な宗教では、これと全く反対であ
る。これ等の信者達は分離独立の個々の存在とは見られないで、一つの集団又は団体と
見倣されるのである。この意味で彼等は全く信者とは云われないのである。宗教的の信
仰は、その全地域社に依って、又その社会の為にのみ存するのである。信仰や実行に当
って考えなければならぬことは、その地域社会の利益と云うことである。宗教的信仰は
最早や私事ては有り得ないのである。このような地域社会内では、そこで生まれた者は
血縁から自然に出てくる幾つかの共通な社会的なきずなの一つとして、宗教を受取るの
である。宗教的な信仰は、総てその地域社会の習慣に精神的な承認を与えるし、そして
それ等の習慣は個々人の生活に殆ど破ることのできない性質や権力を持っているもので
ある。
 
 家長的と云うものは、屡かの僧職が神に代って治めると云う神権政治の色彩と形式と
を取るものである。社会組織が家長的な家族から氏族となり部族となり、遂に国家へと
拡大するにつれて、宗教も亦氏族的な信仰、部族的な信仰から、国民的な信仰、人種的
な信仰へと拡大される。このように、一つの宗教が歴史の流れと共に、氏族の宗教とな
り、部族の宗教となり、遂に国家的な宗教へと膨脹して行くのである。この発達の最後
の歩みが、普遍的な世界的宗教となって現れるのである。
 
 さて吾等の主題である神道に立ち帰ってみると、神道も亦この長い道程を通って、古
代の原始的な信仰から、氏族、部族の段階を経て、遂に日本人の国民的信仰となったの
である。神道は十数世紀に亘って仏教や儒教と共に歩み、後には之れに基督教が参加し
た。しかし真に珍しいことであるが、神道は決してその特殊な部族的な宗教の性格を失
わなかったのである。ヨーロッパ諸国や近東の国民的宗教は、普遍的宗教である基督教
や回教のために根絶された。即ち前者は後者によって廃位されてしまったのである。と
ころが、神道は仏教や基督教と相並んで部族的な国民的な宗教として、その生まれた土
地に固執していたのである。吾等が研究の歩を進めるに当って、この驚くべき現象を忘
れてはならないのである。
 
 神道は、明治時代には国民の世俗的な祭式としてもてはやされ、政治上の便宜即ち御
都合主義のために政治家や軍部に利用されて、神道の内でも特に神社神道は、その真の
宗教上の性質を奪われ、歪められ、不具にされて、単なる祭式となってしまったのであ
る。しかし一九四五年(昭和二十年)国教制度の廃止以来、その根本的な宗教的な性質
を取戻して、世界的な普遍的性質へと段々進みつつあるのである。
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