82 第一章 神道と他の諸宗教
 
 第一節 宗教 − 神中心教と人中心教
 
 広く云えば、世界の宗教は二つの大きな群に分けられる。一つは超神主宰教で、神が
人の上に立って人や世の中を支配して居ると考える、神の栄光中心の宗教である。他の
一つは神人即一教で、人の内に神が内在し、神の内に人が包容されていると考える、即
ち人を神の権化と考える宗教である。
 もし宗教を神との特殊関係にある人の意識と定義すれば、超神主宰教では人生が神と
共にある、即ち神が人と霊的な交りをするというのが特色である。ところが神人即一教
では、この関係は人が神と結合する、即ち神と一体になるという意味である。言い換え
れば、神人即一教では神と人とは結合して、神は人の中に現れる即ち神人となるのであ
る。
 
 ヤーヱー教(エホバ教)のような超神主宰教 − 古代のヘブライ教、猶太教、基督教
及び回教 − では神は高く彼方にましまして、神と人との間には越え難い深淵が横たわ
っている。太古のエホバ崇拝から今日の基督教に至るまでの長い精神的な旅を通して、
その淵は多かれ少なかれ今なお残っているのである。
 
 このように神と人とが全く分離しているのに反して、神人即一教では、神は内在し、
神は人の内に見ることができると云っている。吠陀教、波羅門教、印度の仏教、中国の
儒教と道鏡及び日本人の宗教である神道は勿論、古代ギリシャやローマの宗教も亦そう
であった。この特色は仏教の教主釈迦牟尼即ち喬荅摩(ゴータマ)の宗教に最も良く現
れている。外人方は、これは不思議だと思われるかも知れない。と云うのは釈迦の信仰
は屡一種の無神論として取上げられ、それは全く宗教ではないとさえ、されているから
である。釈尊が普通に考えられているような意味の神については全く説いていないのは
事実である。しかし教主自身の主観的な人格の中に神が客観的に取入れられているので
ある。即ち主観と客観が一つになっているのである。このように仏教はその最も原始的
な形式の内で神人即一教信仰の最も著しい一例となっているのである。
 
 古代ローマの皇帝崇拝や古代ギリシャの英雄崇拝は、程度の差は大きいが、実質は同
じである。オーガスタスやアレキサンダー大王やデメトリオス・ポリオルセテスは多くの
後代人は勿論のこと、同時代の人々の目にも全て神人として見られていたのである。中
国にも亦人間を崇拝するという神人即一教的崇拝の独特な諸形式や祖先崇拝がある。日
本固有の信仰である神道にも亦この宗教的な流れがある。このように印度を含む古代ア
ールヤ民族の宗教の大部分は中国や日本のそれ等と共に神人即一教の形式に属するが、
近東の諸宗教は超神主宰教を奉じて居るのである。
 
 神人即一教の信仰では、人は自己の内に神を見出し、神は自然の中に在る。ところが
超神主宰教の信仰では、神は人と自然との両者の上に超越して存在する。即ち一方は汎
神論で他は唯一神教である。仏教徒は神は内在すると云い、猶太教徒や基督教徒は神は
超越していると云っている。
 
 ここですこし幾何学的に考えてみよう。今一つの割線が一つの円周を横切るとすれば、
その割線は甲・乙二点でその円周と交わる。若し乙が段々と甲に接近して、遂に円周上の
丙点で合すれば、割線は接線となり、甲・乙の二点は合して一点丙となる。幾何学者は丙
は甲と乙を含むと云う。哲学者は甲と乙は同一点内に内在する即ち生まれながらにして
存在すると云う。さて宗教に立ち返って考えてみると、神と人との間に同様な関係のあ
ることを見るのである。超神主宰教では、神は人の上に立っている。神人即一教では、
神と人とは一体となるのである。一寸見ると、ここには単に人だけが在って神は全く無
い。即ち無神論である。換言すれば無宗教であると思われるかも知れない。しかしこれ
は近視眼的な謬見で、非科学的で独断である。皮相的な解釈はどうであろうとも、超神
主宰教も神人即一教も共に真の宗教であると云う一事は確実である。
 
 さて神道は仏教と同様に、神人即一教型に属する。それ故神道には、人間崇拝、宗教
的な意味での祖先崇拝及び英雄崇拝がある。しかし、この外に古事記日本書紀及び日本
における幾多の同様な著作中に語られているような宗教的信仰の最も原始的な多くの型
がある。
 
 第二節 宗教 − 自依教と他依教
 
 さて一転して、自己救済の原理、即ち宗教学上神人即一教と呼ぶもの、即ち神である
人と云う状態について一考しよう。
 この宗教の宗教では、人は自我の内にのみ神を見ようとする傾きがある。神は自分と
云う人間から超越して即ち離れて存するものではない。つまり、神とは己れの自我に外
ならないのである。そこで、若し人が神を拝するとすれば、その人は己れの自我即ち理
想的な自我を拝まなくてはならない。それで、この理想的の自我とは神の別名に外なら
ないのである。
 ウパニシャットでは、この観念論を「アトマン(自我)はブラーマン(神)である」
と云い、仏教の禅宗では、「己れの真我を見る者は真の仏陀である」と見性成仏を説い
ている。しかし、神人即一教信仰を奉ずる者に取って、この結論が如何に自然であろう
とも、神は人から離れて存在すると云う超神主宰教的な伝統を忠実に信ずる人々には到
底考えられないことである。
 
 そこで、宗教にはこれ等の二方面があり、二つの範疇を作っている。自依教と他依教
とが、これである。後者では救う者は神であるが、前者ではそれは理想的自我である。
即ち理想的な自我が崇拝されまた救済するのである。
 他依教信仰を指す言葉には色々ある。二、三挙げてみると、救済、済度、信仰一途、
絶対黙信の宗教、他力、服従、自己否定(抛棄)、自己降服の宗教等。これに対して、
自依教は教主のある原始仏教において、又仏教だけに見られるところのものである。そ
の特徴は自由の宗教、自我(理想的自我)主張の宗教、涅槃へ到達の宗教である。この
ように、神中心の信仰に対して、人中心の信仰である。
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