11b 乃木将軍詩歌集「短歌」
 
 天津風とく吹フキはらへ大君の
 御旗にかゝるあま雲の影
 
 「おなし十三日の暁がた雨しばし降りければ」と端書がある。
 右七首の詠草を納めた封筒の表に「明治三十五年十一月、於豊浦行在所岡澤侍従武官
長へ相渡候。畏も(不明)御汽車中ニ而(不明)天覧之上御直しを賜り、藤波主馬頭執
筆し、別紙同月十三日於熊本行在中 再岡澤侍従武官長下渡相成候者也。」
 なおこの事につき、将軍薨去の後、藤波主馬頭は玉木正之少佐に書面を送られて、左
の如く述べておられる。
 「明治三十五年、九州にて大演習行はせ給ふとて、行幸まします道すがら、十一月十
日といふに、御召列車の田原坂を過ぎさせ給ふ折、勅によりて御前にまう上りければ、
古をや偲ばせ給ひけむ、御歌よませ給ふ。
 「武士のせめ戦ひ田原坂 松も老木になりにけるかな」
 此のうた乃木に見せよと仰言あり、更に乃木の歌正し與へつ汝書きてとらせよとの仰
言うけたまはり、言忠(藤波)やがて筆をとりて書き加へしものなり。
 今この詠草に有りしまゝを一言書きそへてよと乞はるゝ侭に、いなみがたくて斯くな
む。」と記している。
 勅批(陛下の御添削※)は次の如くである。
 
 「        ※とあけぬる  を見渡せば
  しのゝめのほのほのあくるかた  見れば
         ※かひて
  珠タマの二島海にうきいてぬ
 
  ほのほのとしらむ波間を見渡せは
  たまの二島うき出るかな
  (原作のままお下げ渡しになる)
 
             ※かな
  朝日影むかしながらに匂ふらむ
  豊浦の里のかりの宮居に」
 
 大君の今日みそなはすいくさだち
 人もいさめり駒もいさめり
 
 きのふけふ賎シズが門田はかりほしぬ
 御園の菊もさかりなるらむ
 
 右二首も明治三十五年十一月の九州大演習の時の作と思われる。
 
 埋木ウモレギの花さく身にはあらねども
 高麗コマもろこしの春ぞ待たるゝ
 
 明治三十六年三月、那須野から石黒男爵におくられたもので、「三月八日感あり」と
題してある。
 右の歌に対して、石黒男爵は「埋木にさくは櫻の花ならでこまももろこしの雪にぞあ
りける」と返歌をしたゝめ、更に先日約束しておいた軍刀を貸して頂きたいと書いた末
に「杖にでも翁の借り刀」と詠んで送ったのである。すると将軍は、次の二首を返書中
に認めて答えられた。
 
 この太刀はめだちしものにあらねども
 君の御用に立つぞうれしき
 
 雪ふれば枯木に花をなすものを
 埋木のみぞあはれなりけり
 
 春の花におくれがちなる山住ヤマズミは
 秋の紅葉モミジを早く見てけり
 
 明治三十六年九月十八日の作。
 
 鬼怒川のさかまく水に荒駒を
 打入れ渡す武士ぞいさまし
 
 武士が乗る荒駒の勇みあひて
 那須の廣野も狭くぞおもほゆ
 
 つはものの野路の宿りのかがり火を
 つれなくしめす秋の夜の雨
 
 右三首は、それぞれ明治三十六年十月十四日、十五日、十六日の作。翌十一月に行わ
れる栃木県下騎兵第二旅団の演習の予行を見て詠まれた。
 
 那須野なる我すむ宿の板びさし
 むかしながらの霰アラレをぞきく
 
 那須野なる板ふき家根の一つ屋に
 霰聞とて我ひとりすみぬ
 
 右二首明治三十六年十月二十一日の作。
 
 露營より鬼怒の河邊の小松原
 霜に更け行く有明の月
 
 明治三十六年十一月九日の作。騎兵第二旅団演習見学の際詠まれた。
 
 苔むせる巌イワオの上に若松の
 根占ネジメもかたくいやさかへける
 
 明治三十六年十二月三十一日の作。
 「勅題巌上松」と題してある。
 
 花を待つ身にしあらねど高麗コマの海に
 春風ふけといのるものかな
 
 明治三十七年日露役に出征前、留守近衛師団長時代の作。
 
 此侭コノママに朽もはつべき埋木ウモレギの
 花咲春に逢ふぞ芽出たき
 
 明治三十七年四月四日、日露役出征の内示(大命は五月二日)をうけた直後の作。
 
 野に山に討死なせし益荒雄マスラオの
 あとなつかしき撫子ナデシコの花
 
 明治三十七年六月八日の作。六月七日金州に至り、有名な「山川草木」の詩を作り、
翌八日金州を発ち、北泡子崖に向う時に詠まれた。
 
 射向ひし敵カタキもけふは大君の
 めぐみの露に沾ウルほひにけり
 
 明治三十八年一月三日の作。西大将の「きのふまで砦を守る仇人も、けふは浮世の友
にやあらむ」の返歌。なお、同年元旦旅順開城、同五日有名な水師営の会見が行われた。
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