11c 乃木将軍詩歌集「短歌」
 
 戦のしばしひまある秋の野に
 若殿原の競キソひ馬見る
 
 法庫門滞陣中の作。明治三十八年九月二十日、桂彌一氏宛の書状に「霜葉野花邊外秋
」の詩とともに認められたもの。
 「我騎兵團ノ將校、下士、卒ノ競馬ヲ蒙古地境ニ見テ」と題してある。
 
 去年コゾのけふ高崎山の岩むろを
 君もわすれじわれ忘れめや
 
 この歌は「明治三十八年十二月一日於滿洲法庫門」と題してある。
 去年の今日二〇三高地の激戦を思い、当時第七師団長であった、大迫尚敏中将(後の
大将子爵)に法庫門の陣中から送られたもの。
 
 なれぬれば夜毎にひゞく筒音も
 かりねの夢にさはらざりけり
 
 日露戦役中の作。
 
 咲くことをなどいそぎけむ今更に
 ちるををしとも思ふ今日かな
 
 「悼兩典」と題して詠まれた。両典とは長男勝典、次男保典のこと。
 
 まがつひのあらびはあらじものゝふの
 劍の光りくもらざりせば
 
 日露戦役後の作。
 
 たけはやのたけき御稜威ミイヅにもろもろの
 とほきえみしもまつろひにけり
 
 年代未詳であるが、おそらく日露戦役後の作であろう。
 
 新玉アラタマの年の初ハジメの朝日影
 松の緑も彌イヤまさりけり
 
 新玉の年立ちかへる松枝マツガエに
 しめ引はへて緑そひけり
 
 千歳トチセふる松の緑の色そよぎ
 初日輝く秋津島山
 
 門の松にしらしめ繩を引はえて
 神代ながらの朝日をろがむ
 
 四方の海の波も靜かに島山の
 松の緑に朝日輝く
 
 右五首は、明治三十九年御題「新年松」に因んでの作。
 
 位山クライヤマ神代ながらの古道を
 たづねむ人のあれよとぞおもふ
 
 開けゆく道やすらかに位山
 のぼる心のはづかしきかな
 
 右二首は、明治三十九年六月、飛騨地方旅行中の作。
 後に櫟(一位)で作った笏シャクを佐々木(高行)侯爵に贈られた。自分の官の累進を「
身に過ぎたる恩遇」としてその心境を位山の名になぞらえて詠まれたもの。
 
 朝日てる富士の神山あふぎ見れば
 心もそらにすみ渡りけり
 
 この歌の原作「仰ぎ見れば心もいとゞすみわたる朝日てりそふ富士の神山」とあって、
後にこれを改められた。
 なお、この歌は明治四十年七月、学習院の学生と片瀬遊泳場に滞在中、絵葉書の青写
真に将軍自ら富士山を画き、これに題されたもの。将軍は自費を以て右の絵葉書を作製
し、遊泳記念として学生の土産の代りにされた。
 なお他の自筆には初句「朝日さす」結句「すみ渡るなり」と認めてある。
 
 いぶせくもたゞ茂りあふ夏草の
 中に咲くや撫子の花
 
 この歌は明治四十年七月、片瀬遊泳での作。学習院の学生鶴殿家勝氏のために、その
扇面に撫子の花を描いてこの和歌を記す。
 
 浪風をはやくやすめて學び子の
 さちを守れや江の島の神
 
 明治四十年七月の作。
 
 岩角イワカドに咲く撫子の紅クレナイを
 誰タが血潮ぞと偲シノビてぞ見る
 
 二つ三つ岩間イワマに開く撫子は
 今も血潮と見ゆるなりけり
 
 右二首は、明治四十一年の初夏、日露役後三年ぶりで、将軍が旅順の戦跡を訪ねた時、
六月八日の日記「山下大尉、野田大尉案内、爾霊山ニ登リ、高崎山ニ登リ、水師營會見
所ニ午食。云々。」として認めてある。
 
 撫子の花にも心おかれけり
 我友人の血にやあらぬと
 
 明治四十一年六月十五日の作。この日将軍の乗船鉄嶺丸は大連より門司に入港、将軍
は帰国の第一夜を下関の山陽ホテルで過ごされた。
 
 そのかみの血汐チシオの色も偲ばれて
 心おかるゝ撫子の花
 
 明治四十一年六月二十二日の作。この日将軍は「登院参内寫眞等ヲ侍従長迄進呈」さ
れた。
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