03b 乃木神社由緒記
一、祭神のご遺詠
漢詩「金州城外作」
山川草木轉荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
さんせんそうもくうたタこうりょう じゅうりかぜなまぐさシしんせんじょう
山川草木 轉 荒涼 十里 風腥 新戦場
せいばすすマズひとかたラズ きんしゅうじょうがいしゃようニたツ
征馬 不前 人 不語 金州城外 斜陽 立
明治三十七年六月八日、旅順への途次金州城外南山の新戦場を訪れられた時、胸中
無量の感慨をもって作られた詩である。すなわち、南山は日露戦争の激戦地の一つで
あり、長男勝典中尉を含む数多くの将兵が戦火に斃れた地であり、そこに立たれた時、
風物に心を託し、激戦の状を胸中に描きながら斃れた将兵を悼み、その肉親の心情を
察し、更には亡き子勝典中尉を懐われたのであろう。
漢詩「爾霊山」
爾霊山険豈難攀
男子功名期克艱
鉄血覆山山形改
万人斉仰爾霊山
にれいざんけんナレドモあニよヂかたカランヤ だんしノこうみょうこくかんヲきス
爾霊山 険 豈 攀 難 男子 功名 克艱 期
てっけつやまヲおおウテさんけいあらたマル ばんにんひとシクあおグにれいざん
鉄血 山 覆 山形 改 万人 斉 仰 爾霊山
爾霊山とは二〇三高地の事であり、ロシアの旅順要塞の要であって、旅順攻略戦中、
最も熾烈を極めた所である。この詩は二〇三高地が陥ち、旅順攻略に一段落ついた明
治三十七年十二月十一日の作である。この二〇三高地攻略の際斃れた将兵は一万近く
に上ったが、その霊を労らいその将兵の功を永く後世に伝えんとする感慨から二〇三
高地を爾霊山と名付け、この詩を作られたものと拝察せられる。更に、この二〇三高
地において長男勝典中尉に続き、次男保典少尉も戦火に斃れたが、この時の将軍の感
慨は拝察するに余りあるものがあろう。
漢詩「臨凱旋述懐」
皇師百萬征強虜
野戦攻城屍作山
愧我何顔看父老
凱歌今日幾人還
こうしひゃくまん きょうりょヲせいス やせんこうじょう しかばねやまヲなス
皇師百萬 強虜 征 野戦攻城 屍 山 作
はヅわレなんノかんばせカアッテ ふろうニまみえン がいかこんにち いくにんカかえル
愧 我 何 顔 父老 看 凱歌今日 幾人 還
明治三十八年法庫門滞陣中の作である。日露戦争は日本の勝利のうちに終った。大
将は凱旋将軍となられたのであるが、この戦争中祖国の為戦火に斃れた部下将兵に対
し、更には、その遺族に対し、深い悲しみと自責の念を抱かれのであり、その御気持
がこの詩となって現れたものと拝察せられる。
「和歌」
武士モノノフは玉も黄金もなにかせむ いのちにかへて名こそをしけれ
まがつひのあらびはあらじ武士の つるぎの光りくもらざりせば
くはしほこ千足の国のますらをの あらみたまこそつるぎなりけれ
遠くとも花ある道をたどらなむ 人にまたるゝみにしあらねば
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