02a 乃木神社
〈御祭神御事歴〉
年号 歳 事 項
嘉永 二 一 十一月十一日 江戸麻布日ケ窪の長府毛利侯藩邸内に生る
希次の第三子 母寿子
幼名無人、後源三頼時次いで文蔵
安政 三 八 島田松秀に句読習字を学ぶ
〃 四 九 松岡義明に小笠原流躾方(礼法)を学ぶ
十一月二十七日鹿児島にて静子夫人生る
湯地定之の第七子 母天伊
幼名阿七 結婚して静子と改名
〃 五 十 十一月父母弟妹と共に江戸より長府に移住
〃 六 十一 結城香崖に漢学・詩文、
江見後藤兵衛に武家礼法及弓馬故実を学ぶ
文久 元 十三 工藤八右衛門に人見流馬術、
小島権之進に日置流弓術、
多賀鉄之丞に洋式砲術を学ぶ
〃 二 十四 中村安積に宝蔵院流槍術、
黒田八太郎に田宮流剣術、
福田扇馬に兵書歴史を学ぶ
〃 三 十五 藩学敬業館内の集童場に入学
元服し父より武教講録を授かる 名を源三と改む
元治 元 十六 玉木文之進の家に寓し修学
慶応 元 十七 明倫館文学寮に通学
栗栖又助に一刀流剣道を学ぶ
〃 二 十八 報国隊で山砲一門の長として小倉に初陣
〃 三 十九 明倫館文学寮に入寮
明治 元 二十 一刀流目録伝授
〃 二 二十一 報国隊の漢学助教に就任
藩命により仏式練習の為京都伏見御親兵兵営に入る
〃 四 二十三 豊浦藩陸軍練兵教官となる
陸軍少佐(東京)
東京鎮台第二分営(上田)へ出張
正七位 名を希典と改む
〃 五 二十四 東京鎮台第三分営大弐心得
同第三分営尾州名古屋へ出張
〃 六 二十五 名古屋鎮台大弐心得 従六位
〃 七 二十六 名古屋鎮台在勤を免ぜらる(休職四ケ月)
陸軍卿伝令使を命ぜらる
〃 八 二十七 熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得(小倉)
〃 九 二十八 秋月の乱に出動鎮圧
萩の乱 弟正木正誼戦死 師玉木文之進 萩の乱の責任をとり
自刃
〃 十 二十九 小倉営所司令官兼勤
西南役に参加、二月植木の戦にて軍旗を奪わる
陸軍中佐 熊本鎮台幕僚参謀
十月三十一日父希次病没
〃 十一 三十 歩兵第一連隊長(東京)
八月二十七日静子夫人と結婚
〃 十二 三十一 長男勝典誕生
赤坂区新坂町(旧乃木邸)に移転
正六位
〃 十三 三十二 陸軍大佐 従五位
〃 十四 三十三 次男保典誕生
〃 十六 三十五 東京鎮台参謀長
〃 十八 三十七 勲三等に叙せられ旭日中綬章を賜う
陸軍少将
歩兵第十一旅団長(熊本)
正五位
〃 十九 三十八 従四位
十一月独逸国留学仰付けらる
〃 二十 三十九 独逸国留学欧州出発(横浜)
〃 二十一 四十 六月独逸国留学欧州より帰朝
〃 二十二 四十一 近衛歩兵第二旅団長
〃 二十三 四十二 歩兵第五旅団長
〃 二十五 四十四 二月休職(九ケ月)
十二月歩兵第一旅団長(東京)
〃 二十六 四十五 正四位
〃 二十七 四十六 勲二等に叙せられ瑞宝章を賜う
十月日清戦争参加宇品出帆(旅順)
十一月旅順攻略
〃 二十八 四十七 陸軍中将 第二師団長
功三級金鵄勲章及旭日重光章を賜い、男爵を授けられ、華族に
列せられる
台湾征討 南部台湾守備隊司令官
〃 二十九 四十八 仙台凱旋 台湾総督 従三位
十二月二十七日母寿子台湾にて病没
〃 三十 四十九 勲一等に叙せられ瑞宝章を賜う
〃 三十一 五十 二月台湾総督を辞し、休職す(九ケ月)
十月第十一師団長(善通寺)
〃 三十四 五十三 栃木県那須野に農耕休職に入る(二年半余)
〃 三十七 五十六 第三軍司令官
五月二十七日長男勝典戦死(南山)
六月日露戦争参加宇品出帆
陸軍大将 正三位
十一月三十日次男保典戦死(爾霊山)
〃 三十八 五十七 一月旅順陥落 ステッセル将軍と会見
奉天戦に参加
〃 三十九 五十八 一月十四日凱旋
軍事参議官
功一級金鵄勲章及桐花大授章を賜う
〃 四十 五十九 学習院院長 従二位 伯爵
〃 四十一 六十 露軍戦死者建碑除幕式参列(旅順)
〃 四十二 六十一 旅順白玉山表忠塔除幕式参列(旅順)
〃 四十四 六十三 英国皇帝戴冠式に参列(英国)
大正 元 六十四 九月十三日明治天皇御大葬当日
御霊轜宮城御発引の時刻
午後八時 御夫妻自邸居間にて殉死
皇子裕仁親王立太子礼に当り、
特旨を以て正二位追贈せらる
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