03 探湯・誓湯盟神探湯・誓湯のこと
 
                    参考:(財)大倉精神文化研究所「神典」
 
〈探湯クカダチのこと〉
△『日本書紀』巻十応神天皇
九年夏四月、武内宿禰タケシウチノスクネを筑紫ツクシに遣して百姓オホミタカラを監察ミせしむ。時に武内
宿禰の弟イロト甘美内宿禰ウマシウチノスクネ、兄イロネを廃スてむと欲オモひて、即ち天皇スメラミコトに讒言
ヨコシマゴトまをさく、武内宿禰常に天下アメノシタを望ネガふ情ココロ有り。今聞く、筑紫に在りて
密ヒソカに謀りて曰イへらく、独り筑紫を裂きて、三韓ミツノカラを招きて己に朝シタガはしめて、
遂に天下を有タモたむとすと。是に、天皇即ち使を遣して武内宿禰を殺さしむ。時に武内
宿禰歎きて曰はく、吾ヤツガレ元より弐心フタゴコロ無くて、忠マメを以て君に事ツカへまつる。今
何の禍アヤマチぞも、罪無くして死ミマカらむやと。是に壱伎直イキノアタヒの祖オヤ真根子マネコといふ
者有り。其の為人ヒトトナリ能ヨく武内宿禰の形に似たり。独り武内宿禰の罪無くして空しく
死らむことを惜アタラシみて、便スナハち武内宿禰に語りて曰はく、今大臣オホオミ忠を以て君に事
ふ。既に黒心キタナキココロ無きことは天下共に知れり。願はくは密に避けて朝ミカドに参赴マイデ
まして、親ミヅカら罪無きを弁ワイダめて後に死るとも晩オソからじ。且マタ、時人トキノヒト毎ツネに
云ふ、僕ヤツガレが形は大臣に似たりと。故カれ今我大臣に代りて死らむ。以て大臣の丹心
キヨキココロを明アキラめたまへといひて、即ち剣に伏アタりて自ら死りぬ。時に武内宿禰独り大
オホキに悲み、窃に筑紫を避りて浮海フネヨリして、南海ミナミノミチより廻メグりて、紀水門キノミナトに
泊る。僅に朝に逮マイデイタることを得て、乃スナハち罪無きを弁ワイダむ。天皇則ち武内宿禰と
甘美内宿禰とを推カムガヘ問ひたまふ。是に於オキて、二人各オノオノ堅く執りて争ふ。是非
マコトイツハリ決サダめ難し。天皇勅ミコトノリして、神祇アマツカミクニツカミに請マヲして、探湯クカダチせしむ。
是を以て武内宿禰、甘美内宿禰と共に、磯城川シキノカハの浜ホトリに出でて、探湯を為ナす。武
内宿禰勝ちぬ。便スナハち横刀タチを執りて甘美内宿禰を殴倒ウチタフして、遂に殺さむと欲オモ
ふ。天皇勅して釈ユルさしめたまひ、仍ヨりて紀直キノアタヒ等の祖オヤに賜ふ。
 
〈盟神探湯クカダチのこと〉
△『日本書紀』巻十二允恭天皇
四年秋九月、辛巳朔カノトミノツイタチ。己丑ツチノトウシノヒ(九日)、詔ミコトノリして曰ノタマはく、上古
イニシヘの治クニヲサムルコト、人民オホミタカラ所を得て、姓名カバネナ錯タガはず。今朕践祚アマツヒツギシラして
茲に四年ヨトセになりぬ。上下カミシモ相争ひて百姓オホミタカラ安からず。或は誤りて己が姓カバネを
失ひ、或は故コトサラに高き氏ウヂを認む。其の治ヲサムルに至らざることは、蓋し是に由りてな
り。朕アレ不賢ヲサナシと雖イフも、豈其の錯アヤマリを正タダさざらむや。群臣マヘツギミタチ議ハカり定め
て奏マヲせと。群臣皆言マヲさく、陛下キミ失アヤマチを挙げ枉マガレルを正して、氏姓ウヂカバネを定
めたまはば、臣等ヤッコラ冒死カムガムツカマツラムと奏すに、可ユルされぬ。戊申ツチノエサルノヒ(二十八日
)、詔して曰はく、群卿マヘツギミタチ百寮モモノツカサ及マタ諸国造等クニグニノミヤツコラ皆各言さく、或は
帝皇スメラミコトの裔ミコハナ、或は異アヤしくして天降れりと。然れども三才ミツノミチ顕分ワカれてより
以来コノカタ、多く万歳トシを歴ヘたり。是を以て一氏ヒトツノウヂ蕃息ウマハりて、更に万姓ヨロヅノウヂ
と為れり。其の実マコトを知り難し、故れ諸モロモロノ氏姓の人等、沐浴ユカハアみ斎戒キヨマハりて、
各盟神探湯クカダチ為よと。則ち味橿丘アマカシノヲカの辞禍戸岬(岬の山の代わりに石)
コトマガトノサキに探湯瓷(瓷の次の代わりに公)クカベを坐スゑて、諸人を引きて赴ユかしめて曰
はく、実マコトを得ば則ち全く、偽れる者は必ず害ヤブれなむと。〔或は泥(泥冠+土)
ウヒヂを釜に納イれて煮沸ニワカして、手を攘カカげて湯の泥(泥冠+土)を探り、或は斧を火
の色に焼きて掌に置く。〕是に於て諸人各木綿手繦ユフダスキを著けて釜に赴きて探湯クカダチ
す。則ち実を得たる者は、自オノヅカらに全マタく、実を得ざる者は皆傷ヤブれぬ。是を以て、
故コトサラに詐イツハる者は愕然オドロきて、予め退シゾきて進むこと無し。是より後、氏姓自
オノヅカラに定まりて、更に詐イツハる人無し。
 
〈誓湯クカダチのこと〉
△『日本書紀』巻十七継体天皇
二十四年二月、丁未朔ヒノトヒツジノツイタチノヒ、詔して曰ノタマはく、磐余彦之イハレヒコノ帝スメラミコト(神
武天皇)水間城之王ミマキノキミ(崇神天皇)より、皆、博物之臣モノシレルマヘツギミ、明哲之佐
サカシキタスケに頼りたまふ。故れ道臣ミチノオミ謨ハカリゴトを陳べて神日本カムヤマト(神武天皇)以て盛
ミサカリに、大彦オワヒコ略ハカリゴトを申ノべて胆瓊殖イニエ(崇神天皇)用モて隆サキくましましき。継
体之君アマツヒツギウクルキミに及びて、中興之功ナカゴロオコルイサヲシを立てむと欲ホリせば、曷イヅレか嘗
ムカシより賢哲サカシビトの謨謀ハカリゴトに頼ヨらざらむや。爰ココに降りて小泊瀬ヲハツセノ天皇(武烈
天皇)の天下に王キミとますにおよびて、幸サイハヒに前聖サキノヒジリに承けて、隆平サカエタヒラグコト
日に久しく、俗ヒトヤ漸ヤヤに蔽クラくして寤サめず。政マツリゴト浸ヤヤに衰へて改めず。但だ其の
人の各類タグヒを以て進むことを須マつ。大略タバカリ有る者は其の所短タラヌトコロを問はず、高
才タカキカド有る者は其の所失アヤマツトコロを非ソシらず。故れ宗廟イヘを獲承タモチウけ、社禝クニに危く
せず。是に由りて之コレを観れば、豈明佐ヨキタスケに非ずや。朕帝業アマツヒツギを承ウること今に
二十四年。天下清泰スミユタカにして内外ウチトに虞ウタヘ無し。土壌ツチ膏腴コエ、穀稼タナツモノ実ミノリ有
り。窃に恐るるは、元元オホミタカ斯コレに由りて俗ナラハシを生ナし、此に藉ヨりて驕オゴリを成さむ
ことを。故れ人をして廉キョク節カタキを挙げしめて、大道オホキナルミチを宣ノベ揚げ、鴻化オホキナルノリ
を流通シキカヨはさむ。能官ツカサメシする事古イニシヘより難しとす。爰ココに朕アが身に曁オヨびて、
豈慎まざらむやと。
 
秋九月、任那ミマナの使奏して云マヲさく、毛野臣ケヌノオミ遂に久斯牟羅クシムラに於て舎宅イヘを起
造ツクりて淹留トドマリスムコト二歳、〔一本アルフミに云ふ、三歳ミトセと。去来ユキキの歳数を連ぬるな
り。〕政マツリゴトを聴くに懶ヨソホシす。爰を以て日本人ヤマトノヒト、任那人ミマナノヒトと、頻りに児
息コウメルを以て諍訟アラガふこと決サダめ難く、元ハジメより能く判コトワること無し。毛野臣
ケヌノオミ楽コノみて誓湯クカダチを置きて曰イはく、実マコトならむ者は爛タダれじ。虚イツハリあらむ者
は必ず爛れむと。是を以て、湯に投イれて爛れ死ぬる者衆オホし。又吉備キビノ韓子カラコ那多
利斯布利ナタリシフリを殺す。〔凡そ日本人ヤマトノヒト蕃女トナリグニノヲミナを娶りて生めるを韓子カラコと
為す。〕(下略)
 
 即ち、
〈盟神探湯・探湯・誓湯クカタチのこと〉参考:「広辞苑第五版」
 盟神探湯・探湯・誓湯とは、神明裁判の一。古代、裁判上、真偽正邪を裁くのに神に
誓って手で熱湯を探らせたこと。正しい者はただれず、邪ヨコシマな者はただれるとする。
「くか」とも。
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