[詳細探訪]
 
                         参考:至文堂発行「神道美術」
 
〈春日信仰 − 春日曼陀羅〉
 奈良時代を通じて、その宮廷における藤原氏の勢力は大きかった。藤原氏は元は中臣
ナカトミ氏と呼ばれ、その本拠の地は河内の枚岡ヒラオカ辺りにあった。中臣氏はこの土地に住
まい続けてきた古代氏族の一つであって、河内平野に原始的な農耕社会を営みつつ此処
に定着して、地域協同体を形成してきた豪族の一つであった。古代史上に氏族制時代と
か、古墳時代とか呼ばれている時代がそれに当たる訳であるが、ほぼ四世紀から六世紀
に亘っての間であった。そうした地域社会の中心には必ず氏族の祖を葬る巨大な古墳群
が営まれ、そこでは氏族の祖霊を祭る原始的な祭祀が、農耕の豊穣を祈る土俗的な習わ
しと共に行われ続けてきた。そのような原始祭祀の対象が次第に整理され、高められつ
つ進んできた一つが、「枚岡の神」であり、氏ウジの信仰の対象として固定的な社殿神道
の形に発展し、後の枚岡神社になったのである。このような中臣氏の郷里における祖神
信仰は古典時代に入るとやがて天児屋根命アメノコヤネノミコトと比羊(口偏+羊)神ヒメガミと呼ば
れる男女二柱の神して固定したのである。一般にこのような原始的な氏神信仰において
は、それが農耕的な信仰とも合わさって、男女二柱の神、つまり比古(彦のこと)と比
羊(口偏+羊)(姫のこと)と云う形で発足してきたのが多い。
 
 藤原氏が宮廷と共に平城京へ移り、本格的な政治活動をしせ始めるようになると、氏
の祖神に対して加護を求めようとする一族郎党の願いはやがて枚岡の祖神を新都に迎え、
宮城の東郊にあった古来の「神地」(祭祀場)を選んでまず一族の宗祀ソウシとすると共
に、また新京の守護神としてもその祭祀を厚くするようになった。この地は元は大和平
野の北郊を占めていた古代氏族の本拠があった処で、御蓋山ミカサヤマもかつてはそのような
氏族の古代的な祭祀の対象であり、山を神体と崇めつつ農耕神を祀ってきた縁ユカリの場所
を藤原氏が継承したものと思われるが、そのような先住氏族の祖神もやがて春日信仰の
系列下に包括されて、今も榎本エノモト社にその名を留めている。
 
 当時の平城京では漸く静謐セイヒツに帰したばかりの東北地方の鎮護はまだまだ重要な懸
案として残っていたが、この当時既に東北鎮護の武神としてその名が都に聞こえ始めて
いた香取・鹿島の二神を都に迎えて、枚岡の二神と合わせて祀り、藤原氏一門の私的な祭
祀から、平城京の公的な守護神へと発展してきた。その完成期は神護景雲年間のことと
されているが、茲に枚岡の二神と合わせて、いわゆる「春日四所明神」の社殿神道が成
立し、これが平城京の発展、また藤原氏の盛衰と応じて、以後の歴史に宗教的な消長を
辿ることとなった。つまり春日宮曼陀羅は、全て四社の神殿を描き、若宮一社と合わせ
て五所の神影像や五体の本地仏を以てって表される所以である。
 殊に春日若宮の信仰は、神体である御蓋山を山宮ヤマミヤと仰ぎ、若宮社殿を里宮サトミヤに
当て、御旅所を田宮タノミヤとする古代祭祀の形態(おんまつり)を今によく伝承しており、
本社に対する若宮の位置は、神祇的な系譜関係ではなくて、いわゆる「みあれ」による
祭神の宗教的な更生、魂の生まれ変われによる「若々しさ」を象徴する神道宗教独特の
意義を曼陀羅に図像化したものである。
 
 春日四所明神は、藤原氏一門の氏寺として新都に移ってきた興福寺と深い本迹ホンジャク
の関係を結ぶようになったが、茲から中世期の深い神仏習合の歴史が始まったのである。
興福寺は、元々藤原鎌足が氏寺の一つとして山城国に創建しておいた山階寺ヤマシナデラに発
するもので、後に大和平野の南に移って厩坂寺ウマヤサカデラとなり、更に平城京へ移って興
福寺となった。春日信仰と興福寺との習合関係は、春日信仰の中に本地垂迹思想を持ち
込むこととなり、次に示すような春日諸神の本地仏配当も定まってきたのである。
 
 一宮  不空羂索フクウケンザク又は釈迦
 二宮  薬師
 三宮  地蔵
 四宮 十一面
 若宮  文殊モンジュ
 榎本  多聞天タモンテン
 紀社  虚空蔵コクゾウ
 三十八所 弥勒ミロク
 水屋  薬師
 
 このような春日信仰を背景として生まれた春日曼陀羅は、主に興福寺系の寺々におい
て、主要な法儀を行うとき、その道場内に掲げて護法神勧請カンジョウの意を表すのに使用
されるほか、奈良の各地には春日社を崇敬する民衆的な団体(これを春日講シュンニチコウと呼
んだ)があって、そこでは春日曼陀羅を掲げて崇敬講を催すのを年中の恒例とするなど、
そのような用例は、山王曼陀羅や八幡曼陀羅などの場合ともさほど異なるところはない。
 
 藤原兼実の日記『玉葉ギョクヨウ』の寿永三年(1185)五月の条には、
 
 十六日 今日コンニチ神斎シンサイアリ、依ヨッテ明日ミョウニチ可奉拝図絵御社ズエノオヤシロヲハイシタテマツルベキ
     也ナリ
 十七日 被奉拝図絵御社一鋪ズエノオヤシロイッポヲハイシタテマツラル、余早旦ヨソウタン沐浴モクヨク解除之後
     カイジョノノチ着束帯ソクタイヲツケ、取幣帛ヘイハクヲトリ、於御社宝前オヤシロノホウゼンニオイテ、再拝
     サイハイスルコト如常ツネノゴトシ、其後ソノノチ乍着束帯ソクタイヲチャクシナガラ、候宝前ホウゼンニコウシ、
     奉転読心経 一千卷シンギョウイッセンガンヲテンドクシタテマツル。
 
と書いている如く、「図絵の御社」を掲げ束帯を着けて奉拝し、般若心経ハンニャシンギョウを
一千遍転読したと云うのは、春日曼陀羅製作の事実とその奉拝に関する一つの在り方な
のであった。
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