△春日鹿曼陀羅 春日野の自然な動物生態として棲んでいた鹿が、平野の一画に始まった原始的な祭祀 と深い関係を取り結ぶようになったのは随分古いことであったろう。恐らく初めは神々 の住んでいる原始的な林相(神体山)の中から歩み出てきた鹿に、古代人は一種の畏怖 イフと親愛の心を抱き、鹿は何時しか人と神との仲立ちをする神秘な動物として敬愛され 続けて来たことと思われる。 春日鹿曼陀羅の起源については、『春日験記』や『興福寺由来記』に拠ると、鹿島神 が常陸から春日の山麓へ影向ヨウゴウするとき、白鹿の背に乗り、中臣時風と秀行の兄弟を 従えて移座されたと説いている。この「鹿島立カシマダチの神像」の様子を象徴的な神籬 ヒモロギ(神の依代ヨリシロ)の形に写し変えたものが、いわゆる鹿曼陀羅である。 この鹿の背の神籬に鏡を懸けたり、鏡中に本地仏を描き添えたりして、段々と神仏習 合的な色彩の濃い形式へと進んできたのである。 △春日宮曼陀羅 神道曼陀羅の中で、一番美しく味わいの深いのは、一般に宮曼陀羅であるとされてい る。神殿とこれを取り巻く自然の景観を写して風景画的な要素が多く、寧ろ自然の美し さを以って心を深め、その社に対する信仰の念を深めて行こうとするのである。春日宮 曼陀羅は、全て玲瓏レイロウとした満月が奥山の端ハに架かり、その前にある御蓋山ミカサヤマ( 神体山)を青白く輝き出だす処、山麓の社地には老杉に囲まれた朱塗りの社殿やとりど りの境内施設が月光に照らされて、夜の神苑はそのまま極楽浄土の楽園とも見える。こ の絵を掲げ、灯火トモシビを点じて、じっと心を澄ませていると、春日野の夜の静寂シジマに 心は通い、澄み渡る月の光に観照の心は冴え渡る。中世を通じて春日宮曼陀羅が多くの 人々に好まれ、沢山製作されてきた魅力は、そこにあるのである。 △春日本地仏曼陀羅 春日山の上方に画面いっぱいの大きな円相を描き、春日社の主神四座と若宮一座のた めに配当された本地仏像を描いている。なお像が六体であることは、一宮の本地として 釈迦如来と不空羂索フクウケンザク観音の両説があるので六体として描き、簡素な画面の中に 言い知れぬ静けさと神秘感を漂わせている。 春日地蔵曼陀羅は一見すると、ただの地蔵尊を描いた仏画のように見えるが、これは 春日四所のうちの第三殿、つまり天児屋根命アメノコヤネノミコトを祀った枚岡祖神の本地仏であ る。中世には春日山そのものを補陀落山フダラクサン浄土と観相する考え方が、浄土思想の影 響を受けて行われた。鎌倉時代には一般に地蔵菩薩に対する信仰が深まり、地蔵尊を以 って地獄の救い主とする庶民的な信仰が流布すると、春日信仰でも地蔵尊を本地仏とす る第三殿に対する信仰が特に高まり、何時しか春日山浄土は地蔵菩薩の浄土であると云 う観念にまで進んだ。 能満院の春日浄土曼陀羅をよく見ると、第三殿から立ち昇る白雲に乗って、地蔵尊が 一人の往生者オウジョウシャを引導しつつ、春日山に向かう「帰り来迎ライゴウ」の有様を描いて いる。 『春日験記』の中には、解脱ゲダツ上人ショウニンの弟子璋円ショウエンが春日野の地獄に堕ちて 苦しむのを、春日の地蔵尊が救い出して春日山の浄土に往生せしめた、と云う物語もあ り、そのような説話に基づいて製作されたものであろう。 春日山には浄土があると云う思想の反面には、春日野の地下には地獄があるとも信ぜ られ、その救主として春日社の地蔵信仰はこの時代に大きく脚光を浴びることとなった。 今も春日山には地獄谷があり、多くの石仏群が中世の庶民信仰と春日信仰習合の姿を息 吹き続けている。