[詳細探訪1]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈熊野信仰クマノシンコウ〉
 熊野信仰とは、熊野三山を対象とする信仰で、全国的に広がるが、特に東北地方に多
い。その源流を辿タドって行くと、ムスビ、タマ、ケツミコの古代信仰に帰着する。古代
人は熊野の地が常世トコヨの国、妣ハハの国、或いは根ネの国へ通ずる入口にあったと考えた
が、これは此処が、古来幽冥感ユウメイカン漂う地であったからである。
 こうした熊野に、平安初期から山岳仏教の興隆に伴う修験者、密教徒などの活動によ
って、神宮寺の建立、神像の造作、神前読経ドキョウの儀が広く行われ、神仏習合思想が流
布するにつれて、固有信仰の霊地であった熊野の地は全て仏教的に変遷をきたすように
なった。特にこの地が古代から死後の葬送とか黄泉ヨミの国、常世の国に連なると云うよ
うな一種の他界観が存在していたため、仏教思想の浸潤には格好の場所であった。しか
も当時最も訴えた(アピールした)のが、現世利益ゲンゼリヤクの福音フクインを授ける観音菩
薩カンノンボサツの信仰であった。
 
 都であった平安京を中心として観音の浄土たる補陀洛フダラクを求めるならば、南方海岸
に当たる古来の霊地熊野一帯にこれが存在する、と云う観念が結び付くのである。更に
平安後期になると末法思想がより強く意識され、貴族間においては現実社会をそのまま
穢土エドと見る現世穢土観が肯定され、単なる観音信仰から弥陀ミダの引導を求める西方
浄土サイホウジョウドの阿弥陀信仰へと移行して行き、本地阿弥陀如来が熊野信仰の中心とな
る。従って、熊野の神は現当二世の安楽を納受し、苦悩を贖アガナう神として上下を問わ
ず信仰され、「蟻の熊野詣」とか「人真似の熊野詣」と諺があるように、紀伊路と伊勢
路からの参詣者が続いた。紀伊路は京都を出て大阪、和泉の沿岸から藤代フジシロ、田辺を
経て山道に入り本宮へ、更に熊野川を新宮まで下り、更に那智に参り、大雲取越オオクモ
トリコシから再び本宮へ出て帰った。京都から往復百七十里余、普通一ケ月を要した。出発
時は厳しい潔斎ケッサイをし、山伏姿であった。
 
 熊野三山には修験シュゲン、御師オシ・オンシ、先達センダツが居て、道者の御岳精進ミタケショウジと
云う修行を加えた。熊野道者の風俗は「ここ通る熊野道者の手に持ったも梛ナギの葉、笠
に挿サいた梛の葉、これは何方のお聖様ぞ・・・・・・」と狂言小歌に歌われているように、梛
の木を翳しカザシにして熊野本地や絵巻物を持って歩いたようである。また道者の住む地
域や家と彼等の間には、檀那ダンナ関係が組織され、積極的に檀那場回りをした。中世末
には熊野比丘尼ビクニと云う尼も教化活動を行い、また各地には熊野系の神社が勧請され、
三山から出る牛王宝印ゴオウホウインは、邪悪を滅ぼす護符として広く信仰された。
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