[詳細探訪2]
 
                         参考:至文堂発行「神道美術」
 
〈熊野信仰〉
 熊野三山を古来総称して「三山サンザン」又は「三熊野ミクマノ」と呼ぶ。三山の神社はそれ
ぞれの起源を以って、遥か上代における自然な民族信仰の中から発してきたものである
が、平安時代からは山林に斗薮トソウ(頭陀)する修験行者(山伏)達が、吉野大峯の山々
から打ち続く雄大な自然宗教の道場として入り込み、以来藤原時代から中世を通じて、
上は宮廷や貴族から武家、また広く庶民層に亘って三山の信仰は深く普及した。後白河
上皇の三十三度、後鳥羽上皇の二十九度、鳥羽上皇の二十三度、白河法皇の十二度、花
山法皇の三カ年那智参籠などの史実を見ても、その一端を推し測ることが出来る。
 
 京からは鳥羽の精進所を出て淀から乗船、難波は天神橋の川縁から陸路、南海道を下
る。摂津の窪津クボツ王子に始まって、熊野街道には九十九王子社(実数は九十五社)が
転々と二粁おき位に連なって、これを辿れば自ずと熊野三山に尋ね入ることが出来るよ
うに道筋が構成されていた。このような信仰の道筋は、中世から近世に至るまで広く庶
民信仰のためにも解放され、世に「蟻の熊野詣で」と呼ばれる程、何時の世にも夜とな
く昼となく、延々として「みくまのもうで」の列は続いていたのである。
 『熊野縁起』に、
 
 「大日本国六十余州一切衆生、我が許モトに参詣せば、貧窮を除き、現世に安穏ならし
 め、後世には善処に生ぜしめん」(本宮)
 「大日本六十余州一切衆生、われを勧請カンジャウし、われを念じ、われに仕えば、一万
 の眷属ケンゾク、十万金剛童子、大力夜叉童子、各々天魔を払い、外道ゲドウを静めん、
 現世にては安穏にして、娯楽、快楽せしめん」(那智)
 「六十余州、われを念ぜば、病悩を除き、寿福を授けん、わが許に参詣し、白妙幣
 シロタヘノニギテを指し、額ヒタヒに当て礼をなす衆生は、求むる所在地に現世安穏を成就せし
 めん」(速玉)
 
などと三山の託宣にも見えるように、中世庶民信仰の世界において熊野詣では、現世利
益リヤク、即身成仏ソクシンジョウブツの楽園として、一生に一度は詣でるべき山となっていたが、
それにはまた三山の先達センダツや御師オシ達が地方に熊野信仰を布教し、熊野比丘尼ビクニ等
が地方に勧進カンジンしてきた長い努力の歴史があったのである。
 熊野牛王ゴオウと称せられる神符が、起請文キショウモン(誓約書)の用紙として日本中で用
いられたことからも、その信仰の深さと普及度は推測に余りがあろう。熊野社参の路次
の徒然ツレヅレに法皇や貴紳達が九十九王子社で催した和歌会の記録は「熊野懐紙カイシ」と
呼ばれ、中世の仮名書道の名品として今日も貴重視されている。
 三山は修験の山として早くから仏教色が濃厚であったが、特に那智は後に観音信仰の
霊地としても深く庶民の心に触れ合ったので、神仏習合の色彩は天台(特に三井寺派)
との関係が深まり、いわゆる熊野曼陀羅として多くの遺宝を伝存している。
 
 熊野曼陀羅において、三山の主祭神を「熊野三所権現」と呼び、その下に「五所権現
」と「四所権現」が加わって、いわゆる「熊野十二所権現」を形成する(那智だけはこ
れに那智の大滝を神格化する「滝宮タキノミヤ」を加えて十三所となる)。その構成を本地仏
の配当と共に表示すると次のようになる。
 
 社名          本地仏  神像
 本宮(証誠殿ショウセイデン) 阿弥陀  僧形     三所権現 十二所権現
 新宮(速玉宮)     薬師   俗形     〃    〃
 那智(結宮ムスビノミヤ)   千手   女体     〃    〃
 
 若宮          十一面  女体     五所権現 〃
 禅師宮ゼンシノミヤ      地蔵   僧形又は俗形 〃    〃
 聖宮          竜樹   僧形     〃    〃
 児宮チゴノミヤ       如意輪  童子     〃    〃
 子守宮         聖観音  女体     〃    〃
 
 一万十万        普賢文殊 俗形     四所権現 〃
 勧請十五所       釈迦          〃    〃
 飛行夜叉ヒコウヤシャ     不動          〃    〃
 米持童子        毘沙門         〃    〃
 
 滝宮          千手          那智山の地主神
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