う 氏神・産土神
 
〈うじがみ〉
 氏神
@氏族の祖先として祀る神。氏族神。例えば、藤原氏の祖先児屋根命コヤネノミコト(春日神社
 )、忌部の祖天太玉命アメノフトダマノミコトの類。
A祖神でなくとも、氏に由緒ある神。例えば、藤原氏の鹿島・香取の類。
B時代が下り、産土神ウブスナノカミと混同せられ、住居地の鎮守の神を呼ぶようになった。
C現在では、本来の氏神・鎮守神・産土神の三つの性格が混同ししたものを氏神と称して
 いる。
 
 その混同の時期は中世後期にあった。氏神の古い文献は旧事紀で、崇神天皇の時、物
部の祖伊香色雄命イカシコオノミコトが布都大神フツノオオカミ(霊剱)を大和の石上イソノカミに祀って氏神
としたとある。ほかに、竹田川邊連と云う一族が仁徳天皇の時に、大和十市郡にある竹
田神社を氏神としてこの地に住んだ(姓氏録十三)とか、摂津住吉郡大海神社二座、元
の名は津守氏人の神(延喜式)とかあるが、これは祀る方の氏人集団を本位にして記し
たもので、その氏の氏神ではない。古事記に、綿津見神は阿曇連等が「祖神オヤガミ」とし
てもちいつく神とも出てくるが、この祖神と云う語はあまり用いられなかった。
 
 氏神を祀るのはその氏人の特権で、他氏異姓の者の参加を許さない性質のものである。
即ち、崇神天皇紀に三輪大物主神が、天皇の神祭を欲しないで、その子孫大田田根子を
して祭事を執り行わしめたとか、皇室の祖神伊勢神宮に対しても、その奉幣の儀は、三
后・皇太子と雖も勅許を得なければ奉幣することが出来なかった(延喜式巻四)。
 このように氏神信仰には、その社に専属する氏人、氏子の集団、その社特定の祭儀と
伝承などがあり、それが村代々、家代々において連綿と継承され、厳格な資格や秩序が
保たれてきた。従ってそこには甚だしい封鎖姓・孤立性が見られる。村や家の歴史と伝
統、共同体的生活によって基礎付けられ保持せられている信仰で、氏神信仰の有する社
会的意義は大なるものがある。従ってそこに表白される信仰は、全て公共の、群の利益
と幸福のためのもので、個人の苦悩を解決し、福分を祈るべきものではなかった。それ
が後世、産土神と云い鎮守神と呼ばれ、その観念が混同せられるようになっても、氏神
信仰は一貫して一つの組織と方式によって維持された。
 
〈うぶすなのかみ〉
 産土神
 産土ウブスナとは、祖先若しくは自己の出身地又は永住地を価値的な出自意識をもって表
現する言葉であり、従ってその土地の守護神を自己の出自に伴う運命をも司るものと信
じて、これを産土神と称する。
 
 文献に見える表記には、本居・宇夫須那・生土・産土・産須那などが多く、他は近世にお
ける語義解釈で案出されたものが多い。本居をウブスナと訓ずるのは、推古天皇記三十
二年十月の条に「葛城県者元之本居也。」とあって、古く北野本にウブスナと訓ぜられ
ているものを有力な根拠とする。産土の語義としては、天文元年成立の『塵添蓋(土扁
+蓋)嚢抄ジンテンアイノウショウ』巻十三に風土記逸文の一節「尾州葉栗郡ハクリノ若栗郷ワカクリノゴウ
宇夫須那社ウフスナノヤシロアリ。廬入姫イホイリノヒメ誕生産尾地タンジャウサンヲノチ也。故ユエニ此號コノナアリ
」を引用し、当時は所生の所の神をウブスナと云い、本居、産土、宇夫須那などと書く
としている。
 
 『貞丈雑記』巻十六には、「本居はもとのをりどころにて、産れたる処を云ふ。うぶ
は産なり、すなわち土なり。」とあり、また『倭訓栞』には、「推古記に本居をよめり。
産出の義なるべし。○邑里の名にいふも、名ある人の出でたる所をよべり。その義風土
記などにも見えたり。」とある。なお産土信仰を重視した平田派国学者には、この語を
神学的に解釈する者が多い。六人部是香が産須那を為産根ウブスネとして万物を産む根本の
意に解し(産須那社古伝抄広義)、また佐野経彦が、産為根はウブスニと云う語がウヂ
(氏)と云う語に約したものと同義で、産土神は氏神のことであると説いている(宇夫
須根神考)。その他に、産砂と宛てて梅宮神社の砂を出産の守りとするところから出た
とする解釈(神道名目類聚抄)や、「産住場ウブスニハにて、産出てやがて住場になればや
」(神祇称号考)とするものもある。
 
 要するに、ウブの語義では全ての解釈が一致して「産」「生」の意としているが、ス
ナ又はナについては説明が多義にわたっている。多くは、ナは名であり、名は生、成、
為であって(倭訓栞、古事記伝)、「其住着ける地をいへり」(書紀伝巻二)とし、特
に邑里と云った地縁集団の位置する比較的狭い土地を指す意味にとっている。即ち、産
土神はウブスナなる土地に祀られた神として、祖先又は自己を含めた郷党社会を守護す
る神格を云うのである。従って、その土地の住民若しくは出身者は、伝統的な共同体の
同族的心意に基づいて、この神を氏神と称する傾向が強く、特に中世以来氏神が地域神
化するに従い、氏神や鎮守神との混用が激しくなってきた。
 
 更に、平安末期より産土神に通ずる産神なる文字が散見し(今昔物語巻三十)、室町
時代には産神、氏神ともにウブスナと訓み(温故知新書上)、近世には産神に対する氏
子を産子ウブコと呼ぶにいたる(増訂武江年表巻六)。産土神(産神)と産子の関係は語
義の上からも自ずと子供の出生に関連し(日本武尊吾妻鑑四)、江戸時代には各地方で
初宮参りを「うぶすな詣」と称したことも多い。
 また、近世の神道思想には産土神を幽世に位置付ける神学的試みも目立っている。即
ち産土神は、その氏子を守護し、その死後の霊魂を導いて生前の行動を審判したり、そ
れと協力して共に郷土と氏子を守護すると云う信仰である。これは、神代紀記載の幽冥
主宰の神たる大国主命に結び付けられ、各地の産土神が毎年十月(神無月)に出雲大社
に報告のため神集うと云う神在月の信仰と結合して広く普及した。
 かくして、氏神、鎮守神の信仰と殆ど同一視されるに至った産土神の信仰は、郷土的、
部落的な社会生活において住民奉斎の中心となったのである。ただし、明治維新後は、
氏子制度が整備されたこともあって、公的には産土神ではなく氏神の称が一般化してい
る。
 
産土神社関連リンク [鹿角の郷の「碑文(由緒)」ウォッチング(「神社の碑文」登載の全神社)]

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