い 伊勢信仰
〈いせしんこう〉
伊勢信仰
伊勢信仰とは、伊勢の神宮に対する尊崇である。
伊勢信仰は、皇大・豊受両宮鎮座の古代からあった。当初は皇室を始めとして貴族、武
将などの信仰が深かったが、時代と共に伊勢信仰層は広く、深くなって行った。
伊勢信仰は、伊勢参宮として具体化されるが、『大神宮諸雑事記ゾウジキ』(平安中期
の神宮古記録)に拠れば、承平四年(934)九月の神宮神嘗祭カンナメサイに「参宮人十万、貴
賎を論ぜず」と見え、既に平安中期には、多数の参宮者があり、伊勢信仰が大衆化され
ていたことが分かる。
鎌倉時代には、幕府の創立、世情の安定と共に参宮者が増加し、僧侶の参詣もこの頃
に始まった。室町時代に入り、御師オンシの活躍や伊勢講組織の結成と共に、信仰者層も広
範囲の民衆に及んで行った。江戸時代には、天下泰平と街道の整備、宿駅の設置並びに
充実などにより、参宮が容易となったため、参宮者が更に激増した。
伊勢信仰の強化、伊勢参宮の隆昌に寄与したのが、御師と伊勢講であつた。御師(大
夫タユウとも)は御祈祷師の略で、平安末期から鎌倉時代にかけて起こり、参宮の斡旋アッ
セン、宿泊の世話、祈願、各檀家ダンカへの神札の配付などを行い、御師と地方檀家とが密
着して行った。伊勢講は講参りとして室町時代に起こっているが、江戸時代には、その
数も増え、盛んとなった。伊勢講は伊勢信仰集団であり、御師の地方下向がその結成の
一因となり、参宮講、代参講としての性格を強め、各地に数多くの伊勢講が出来て行っ
た。
せめて一生に一度はお伊勢様にお参りしたいと云う民衆の熱望が、伊勢へ伊勢へと足
を向かわせたのであるが、参宮史上特色があったのがお蔭参りである。道中の住民の温
かい施行セギョウによって、無一文でも無事に参宮を果たすことが出来た。これも大神様の
お蔭であり、土地の人々のお蔭であると云うことから、お蔭参りと云ったのである。ま
た親兄弟、主人などの許しも受けずに、群参の仲間に入り参宮したことから、抜け参り
とも云った。お蔭参りは、大体六十年に一度起こった熱狂的な群参で、慶安三年(1650
)に始まり、慶応三年(1867)に至るまでに五回行われたが、文政十三年(1830)には、
四五七万人余の参宮者があったと記録されている。
明治になって御師制度が廃しされ、国営となった神宮は、わが国全国民の組織として
厚く崇敬されるに至った。第二次世界大戦に後、神宮は国家の管理を離れて宗教法人と
なり、またわが国の社会情勢並びに思想も変転したが、そうした思想や理論を超えた日
本民族信仰の原点としての伊勢信仰は、力強い底流となって生き続けている。神宮の参
拝者数は、年間八百万人余を数え、また伊勢信仰の結集としての第六十一回神宮式年遷
宮が平成五年(1993)に行われた。
伊勢信仰は、心の故郷への敬慕として、今日も民衆の心に強く生き続けているのであ
る。
〈いせこう〉
伊勢講
伊勢講とは、伊勢大神宮を崇敬し参詣する目的で結ばれた宗教的集団である。多くは
講金を積んで代参者を出し、太々神楽を奉納したので、伊勢太々講、神楽講、代参講、
参宮講など各種の呼称がある。講の成員は一定の地縁関係を基礎とするもの、年齢によ
って構成されるもの、信仰者だけが集まったものなどがあり、信仰集団が組織された社
会的基盤の反映が重要な要素となっている。全国的に分布し、その歴史も室町時代に始
まると云う。毎月一回は講の集会を開き、講元、講宿、講親と云われる宿に集まって祭
りをするが、地縁単位の場合は、それが自治的行政や経済的活動の単位ともなった。代
参者は籤引きや順番などの方法で決定するが、代参者の潔斎や、送り迎え、代参中の物
忌みなどが厳しく、また代参を終えないと一人前と認めないと云う処もあり、成年式の
意義をも持っていた。
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