〈いなりしんこう〉
 稲荷信仰
 稲荷信仰とは、稲荷大神、即ち伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂神の信仰であ
る。宇迦之御魂神は、五穀(米・麦・粟・豆・黍(又は稗))を始めすべての食物や蚕桑の
ことを司る神で、「稲生りイネナリ」が約音便によりイナリとなったが、その神像が稲を荷
っているところから稲荷の字を充てたと云われている。わが国は、往古から農業国で水
田に稲を作り、米を主食としていたから、深く農耕神を信仰し、これが自然に稲荷信仰
と結び付いたと考えられる。
 平安時代に入り、稲荷神社は東寺の鎮守とせられ、朝野の尊崇を集めて社運が隆盛と
なり、稲荷信仰もそれに伴って広く伝播し、初午などには一般民衆が群参する状況であ
った。中世から近世にかけて工業が興り、商業が盛んになると、稲荷の神格も農耕神か
ら殖産興業神・商業神・屋敷神と拡大し、「衣食住の大祖、万民豊楽の神霊」と仰がれ、
農村だけでなく、大名・町家の随所に稲荷神が勧請されるに至った。江戸の市中では、最
も多いものの一つは稲荷神祠であると云われたが、これは全国的な傾向で、津々浦々に
至るまで、稲荷大神が奉祀せられた。
 
 この稲荷神勧請のことは現代も引き続き行われ、現在その神社数全国で三万余に達し、
諸神のうちでは最も多い。これに個人の邸内祠等をも加えれば殆ど無数であって、その
信仰の広くして強いことを見るべきである。このことは稲荷大社の社頭や、お山(稲荷
山)における信仰者の熱烈な行状からもう
かがわれる。
 因みに、稲荷神の神使を狐キツネとする民間信仰(眷属信仰)は、中世にまで遡り、今な
お根強いものがある。これは宇迦之御魂神ウカノミタマノカミの一名を御饌津神ミケツカミと云うので、
狐の古名の「ケツ」との音便から、三狐神ミケツカミの字を充てたことに基づく。
 仏家では稲荷神を経典中の荼枳尼天ダキニテンに習合して祀り、狐に付会しているが、こ
れらは本来的な稲荷信仰とは云いがたい。
 本社の背後の稲荷山には、各信者の守護神(御眷属ゴケンゾク)が祀られ、お塚ツカと称
し、その数は四四四〇基(昭和四十一年調)にも及ぶ。
 
〈こくれいしんこう〉
 穀霊信仰
 穀霊信仰とは、穀物に宿る神、穀物を支配する神の信仰である。
 特に稲霊の信仰は古代にあっては宇迦之御魂神(倉稲魂命)や屋船豊受姫ヤブネトヨウケヒメ
であり、延喜式の大殿祭祝詞にはこの女神を稲霊としている。民間の信仰には明確な稲
霊の信仰を認める資料に乏しいが、農神を女神とし、稲そのものを御神体として祭るな
どの習俗に、その痕跡を認めることが出来る。

〈はつうまぎょうじ〉
 初午行事
 初午行事とは、二月の最初の午の日を祝う行事である。
 伝えによると、京都伏見稲荷神社の祭神が、山上三ケ峰にお降りになったのが和銅四
年(711)二月十一日(九日とも)と云い、その日が初午であったから縁日にしたと云
う。
 既に『紀貫之集』に、延喜六年(906)の二月初午に稲荷詣をした時の歌があり、『今
昔物語』にも二月初午に稲荷山に参る者の多いことが記されている。
 稲荷は早くから農業神、商業神などの神として信仰されたばかりでなく、広く開運の
神ともされている。
 二月は農業の開始される前の氏神祭、田の神祭の時期でもあるため、初午の行事が全
国的に広がったものと考えられるが、その背景に田の神の神使としての狐の信仰があっ
たことにもよる。
 
〈付記〉
@宇迦之御魂神は、倉稲魂命ウカノミタマノミコトとも表記する。
Aまた保食神ウケモチノカミは、日本書紀四神出生の条第十一の一書に見える食物神で、宇迦之
 御魂神と同一の神とされる。
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関連リンク [鹿角の郷の「碑文(由緒)」ウォッチング(神社の碑文「稲荷神社」)]
関連リンク [同(鹿角市の文化財「土深井裸まいり」)]
関連リンク [年中行事「12 二月の行事(初午)」]

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