い2 稲荷神社
〈ふしみいなりたいしゃ〉
伏見稲荷大社 旧官幣大社稲荷神社、京都府伏見区稲荷山西麓に鎮座
世に伏見稲荷フシミイナリとして知名、全国三万余を数える稲荷神社の総本社である。
祭神は古来諸説があるが、現今は宇迦之御魂大神ウガノミタマノオオカミ(下社・中央座)・佐田
彦大神サダヒコノオオカミ(中社・北座)・大宮能売大神オオミヤノメノオオカミ(上社・南座)・田中大神タナカノ
オオカミ(田中座・最北座)・四大神シノオオカミ(四大神社・最南座)の合わせて五座で、これを稲
荷大神、或いは稲荷五社大明神と称している。
元明天皇和銅四年二月七日初午の日に、稲荷山三ケ峯に鎮座せられたと伝承される。
爾後秦ハタ氏一族が禰宜・祝となって、祭祀に奉仕した。国史における初見は、淳和天皇天
長四年従五位下を授けられたことであるが、以後神階は次第に進み、天慶三年従一位、
次いで同五年頃にははやくも正一位の極位に叙せられた。一方、それと相俟って文徳天
皇仁寿二年以降、朝廷によりしきりに奉幣のことがあり、崇敬殊に篤く、また封戸・神
田等寄進のことがあった。
延喜式の制では、稲荷神三座(下中上三社の神)は並ナラビに名神大社に列し、祈年・月
次・新嘗の案上及び祈雨の官幣に預かり、やがて二十二社の制が成立すると、その一に加
えられ、上七社第六に位するに至った。 殊に後三条天皇延久四年三月には初めて当社
に行幸のことがあり、以後鎌倉時代にわたって当社行幸のことは歴代の流例となった。
また屡々行啓・御幸の儀が執り行われた。
平安末期以降荘園盛行の時代になると、当社も山城・美作・備後・加賀・越前・美濃等の諸
国に荘園を持ち、就中備後国杭荘・越前国水間荘には稲荷大神の分祀が置かれていた。地
元の山城国には豊田荘を領知した外、当社付近の地区には多くの神田を有し、これらは
神用に供すると共に、社家の経済生活に充てられた。下って建武中興の際には、建武元
年九月、社領加賀国針道荘が安堵せられ、室町時代には将軍家より屡々諸荘安堵のこと
があった。更に正親町天皇は元亀二年、別して崇敬の思召をもって、幕府をして本社に
濫妨した三淵藤英等の非違を糾弾せしめられた。
豊臣秀吉は天正十七年社領として百六石を寄せ、且つ境内地子以下を免除した。徳川
氏はこれを承け、朱印領として安堵して幕末に及んだ。
明治四年五月、官幣他者に列せられた。第二次世界大戦終戦後国家管理を離れ、昭和
二十一年七月、新たに規則が制定せられ、宗教法人伏見稲荷大社として運営されるよう
になった。
当社はその上み以来、民衆の信仰が強く、国家管理の時代にも民衆の信仰の最も強い
神社の随一とされていた。これは衣食住と云う民衆の日常生活を守護せられる祭神の神
徳に基づくもので、その概略については「稲荷信仰(後述)」を参照されたい。
なお、朱印領が明治維新の際、上知(返納)されたことは云うまでもないが、境内地
においても、もと稲荷山の山上山下を含めて約二十六万坪に及んでいたが、一挙に二万
坪余を残して他は上知され、信仰の場としての尊厳が傷つけられ、宗教活動にも支障を
来したほどであった。しかし、その後政府と折衝を重ね、明治三十五年と昭和三十七年
との二回の払い下げによって、現在は概ね上知以前の規模に復帰し、稲荷山の神蹟と遥
拝路等はほぼ往時を想見できるようになった。
当社はもと稲荷山に、下社・中社・上社の三社があったが、のち田中大神と四大神とが
奉祀されて五社となった。応仁の乱にそれらが灰燼に帰し、その後現在のような五社相
殿が山麓に建立されたと云われている。現在の本殿は明応八年の建造にかかり、天正十
七年豊臣秀吉の修理を経ており、稲荷造と呼ばれる桧皮葺ヒワタフキ五間社イツマシャ流造ナガレ
ヅクリ、五十六坪余である。昭和三十六年新たに内拝殿を造営し、向拝大唐破風をその正
面に移して、本殿を明応造営当時の姿に復元した。
因みに、当社は古くから東寺の鎮守と仰がれ、五月の還幸祭には、旅所を出た五座の
神輿は、途中東寺に入り、神供のことがあって還幸するのを例とした。神宮寺のことは
古く所見はないが、中世末頃から別当寺(愛染寺)のことが見え、近世には社家になら
って御分霊授与のことも行っているが、維新の際廃せられた。
当社の祭礼は古来稲荷祭として知られ、古く四月上卯日(三卯あれば中卯日)を式日
とした。祭礼は三月中午日に御輿迎の儀があり、神璽を神輿に遷し、旅所に渡御があり、
駐り給うこと二十日、前述の四月上卯日に還幸があって祭典が行われた。明治以後改暦
によって、式日を四月第二午日に神幸祭、五月第一卯日を還幸祭に変更した。還幸祭を
世に稲荷祭と云い、京洛における春の重要な行事の一つである。
現在特殊神事の主なるものは大山祭(一月五日)、奉射祭(一月十二日)、初午大祭
(二月初午の日)、稲荷祭(神幸祭は四月下旬の日曜日、但し二十日より三十日までに
日曜日が二回ある場合は初めの日曜日、還幸祭は五月三日)、火焚祭(十一月八日)、
煤払祭(十二月初申日)である。
なお本殿並びに境内なる後水尾天皇下賜御茶屋(寛永十八年当社祠官荷田延次拝領、
禁裡庭内のものを移築)は共の重文に、また荷田春満の旧宅は史蹟にいずれも指定され
ている。
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