09a 森林の思考・砂漠の思考〈仏教とキリスト教〉
△円環的世界観と直接的世界観
全てが相い待って存在していると云う考えから,世界は初めもなく終わりもなく,永
遠に続くと云う世界観に達したことを述べましたが,世界が永遠に流転を繰り返すと考
えるためには,もう一つ,輪廻の思想が加わらなければなりません。それは,2500年前
頃明瞭に認められるようになったものです。樹が生長し,朽ちて土に還り,また,新し
い芽が出てくるのを目マの当たりに見ることの出来る,生長の早い,高温で多湿な森林の
中で,輪廻の思想は,極めて自然に生まれるでしょう。倒れた動物の屍の上に,より逞
しい樹木の生ずるのを見て,一つの生物から他の生物に生まれ変わる,輪廻転生の概念
も自然な展開でしょう。こうして,永遠を考える森林の世界観は,同じく森林の,輪廻
の思想と組み合わさって,世界は,初めもなく終わりもなく,ただ永遠に流転を繰り返
すと云う,円環的な世界観が成立することになります。
それに対して,天地創造の世界では,世界は決して永遠ではあり得ません。草も木も
なく,倒れた動物の死体もただ白い骨を残すだけの砂漠では,輪廻の思想は生まれ得ま
せん。世界は,天地創造に始まり,終末へ向かって,一直線に進行すると云う直線的世
界観が成立することになります。そこでは繰り返しはないのです。
「歴史は繰り返す」と云う言葉があります。「歴史は繰り返さない」と云う,即ち歴
史の一回性と云うような概念はまた自明でもあります。例えば進化論で培われたわれわ
れの知識体系は,一方向的に進化,即ち一回性と云う概念は理解しやすい。このように,
全く相反する言葉が存在すると云うことが,人間の持ち得る世界観が,直線的と円環的
と,その二つだけあって,少なくとも我々は,日常,その二つの世界観の中に,混交的
に生きていることを示しています。
△自力と他力
超越者が,万物を絶して対峙タイジする絶対者であると理解するか,万物と相い待って
存在する絶待者であると理解するかによって,世界を有限であると見るか,無限である
と見るか分かれることを観ましたが,何れにしても,超越者と云う概念は,人間の考え
得る最大の概念であって,その大きさを意識する程度に反比例して,一個の人間の力に
頼むことが少なくなります。仏教の言葉を用いますと,自力より他力への移行と云うこ
とになるでしょう。
ここにおいて,抑も「自力」と考えられるものが存在するように見えることに微妙な
問題が生じます。我々には,善をなし悪を退シリゾける自力が,少なくとも,ある程度ま
では存在するように見えます。ヨーロッパの言葉では,「自由意志」が人間に与えられ
ており,その自由意志を,悪に向けることも出来るし善に向けることも出来ます。
自力がある以上 − 少なくともあると感ずる以上,その自力を働かそうと考えるのは
自然の成り行きであって,自力に頼む思想も明らかに存在しましたが,しかし,文字ど
おり,「永遠」の歴史の意識の中にあって,仏教の世界では,「あるがままに」あるこ
とが,思想の主流となりました。「あるがままにある」と云うことは,自力を働かした
ければ働かす,自力が執るに足らないと思えば働かさない,全て,他力,即ち超越者に
抱イダかれることです。
尤も,仏教においては,バラモン教以来の伝統として我の意識が強い。我を否定する
思想も数々生まれましたが,それは反対に,基本的には我の意識が強いことを示してお
り,森林の中の瞑想によって形成されて来たバラモン教から仏教の流れ出たことを考え
ますと,寧ろ,それは当然でしたでしょう。そして,一方には,人類には,狩猟時代以
来の呪術の思考が根強く残っており,それが,「自力を働かす」と云う行為の中になお
潜んで流れていると見ることも出来ます。
それに対して,世界が有限であり,天地創造から終末に向かって,一直線に進んでい
ると考えるキリスト教の世界では,もっと緊迫感がありました。天地創造も,遠い彼方
のことではなく,紀元前5492年のことであったと,紀元後1500年を少し越えた時代の人
まで考えていたのですから,その短い世界の存在の間に,人間がのんびりと過ごしてい
い筈がありません。キリスト教の世界では,その用語である人間に与えられた「自由意
志」を,歴史の進む方向,即ち神の摂理の方向に向けて働かすべきであると考える思想
が支配的となりました。人間の社会が奴隷制から民主制へ移行して来た事実を見て,そ
の変化が神の意志によって起こったものとして受け止め是認し,肯定し,そういう方向
に,なお一層社会が進むことに,自分個人に与えられた「自由意志」を働かせます。そ
ういう方向の変化は,そういう個々人の力の集合によって確かに加速されたでしょう。
それをヨーロッパ社会は「進歩」と名付けました。
ヨーロッパが世界の先進地域になったのは,この意識によると云う考え方があります。
歴史の流れに照らして「よし」と考える事柄が,多く,人間の努力によって実現しまし
た。
しかし,どんなに世界を短いものと意識しようが,その世界が,神による天地創造に
始まり,神による終末に至るのであるとしますと,矢張り人間が,人間の「自由意志」
をそれに向けて働かせて,その神の計画に参加しようとするのは傲慢ではないでしょう
か,抑も人間の小さい頭脳で神の計画を理解することが出来るのでしょうか,神の計画
と考えるものも,人間の考えの投影に過ぎないのではないでしょうか,と云う考えは,
依然として成立し得ます。
この考えは,キリスト教世界の中では,主流を占めることが出来ませんでした。しか
し,例えばエチオピアのような辺境の地に,その思想は生き続けることが出来ました。
エチオピアは,ヨーロッパの多くの国々よりも前にキリスト教を国教として今日に至っ
ている国ですが,其処では,よい収穫は人間の勤労の結果ではなく,収穫の少ないこと
もまた人間の怠慢の結果ではないと考えられて来たのです。
△東と西の間
エチオピアでは,「あるがままに」と云うような言葉は無いようです。しかし,その
根本精神は,正にあるがままで,それはエチオピアが,ヨーロッパとインドの中間に位
置する処に在ると云う地理的条件によるものと考えることが出来ます。興味深いのはエ
チオピアの終末観で,前述しましたように,エチオピアでは終末が来るとすればこの日
であると云う日が,毎年,何日か回って来るとし,その終末の時,死せる者は生きかえ
り,生きているものは死んで,再び世界が始まると考えていることです。これは明らか
に,西の直線的な世界観と東の円環的な世界観との混交でしょう。
同じような観点から注目されるのが,中国(毛沢東)の永久革命思想です。革命は,
ヨーロッパでは,未来のある時に突如として理想社会が出現すると云う,典型的に直線
的な,然も終末的な,従ってユダヤ-キリスト教的な思想ですが,これが中国に入ります
と円環思想と混交して,革命が永久に繰り返すと云う,永久革命の思想として展開して
います。中国と云う地理的位置は,一見極東の,従って森林的な風土と考えがちですが,
前述のように,ユダヤ-キリスト教と云う砂漠の思想を生んだアフリカからアラビアにか
ける乾燥地帯の東の延長に位置していますので,森林と砂漠の中間的な位置にあること
は,エチオピアと全く同じ状況なのです。
こういう中間的な状況と云うのが,単に論理の未熟と見るべきか,東西を止揚するも
のであると見るべきでしょうか。筆者にはよく分かりません。事実の観察として述べて
みましょう。
一人の人間の中にあっても東と西,他力と自力の共存,拮抗は一般的でしょう。ゲッ
セマネの園で,「苦き杯をとりたまえ」とイエスですら祈ったように,呪術とは区別し
難い,自分の願いの流出,自己中心的な祈りは,誰の口からも出るものでありましょう。
「されど,み心のままになしたまえ」と云う他力の極致の言葉が,本当に吐ける人間は
居なくとも,その言葉が全く意識に上らないキリスト教徒や仏教徒もまた一人も居ない
でしょう。
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