09b 森林の思考・砂漠の思考〈仏教とキリスト教〉
 
△二大宗教の拡大
 キリスト教と仏教は,その始まりの時点において既に西と東と云う位置にありました
が,それと共に,東方には東南アジアの湿潤な森林地帯が拡がり,西方には,アフリカ
の砂漠及びその延長である乾燥した地中海が拡がっていましたので,この二つの宗教は
東と西に分かれて拡大を開始しました。それは,この二つの宗教が,人間の論理と云う
点で同じ力を持つものであるために,世界を二分して拡がったことを示しています。繰
り返しになりますが,世界が永遠に続くか,初めと終わりがあるかについて,人間の論
理は,どちらかの方が正しいか決めることが出来ません。一人の人間にとってはそれは
全く直感的 − と云うよりは,寧ろ任意な選択があるだけです。その意味において論理
の力は同等です。
 
 キリスト教と仏教を世界の二大宗教としたのは,こういう風に基本的には二つの考え
しか成り立たないと云う意味において,やや象徴的に述べたのであって,現実には行く
先々の状況が加わり,一般には論理の後退が行われて,諸種の宗教が存在しています。
キリスト教と仏教が,それぞれ砂漠的・森林的思考の極として一旦形成されますと,そ
の論理の力によって,単なる自然環境の処にも拡大して行きました。森林的仏教が砂漠
の中に入る例は少なかったが,砂漠的なキリスト教は,アルプスの北の森林地帯にも,
遅い速度ではありますが浸透して行きました。
 
△二大宗教の変容
 繰り返して述べますが,ここでキリスト教・仏教と云うのは,砂漠的論理の究極,森林
的論理の究極と云う象徴的な意味で使っており,現実に存在する宗教形態は,地方によ
って変容して,別の宗教名を付けられているものもあります。
 既に述べましたように,超越者を人間が認識し得るのは,超越者の受肉によってのみ
であると云う論理によって,東ではブッダがそれであると考えられ仏教が成立しました
が,同じ論理によって,それがブッダだけでなく,目に見える,或いは目に見えない様
々なものに顕現されていると考えて,インドではヒンドゥー教が成立します。ヒンドゥ
ー教はバラモン教からの展開であって,仏教の変容したものではないかも知れませんが,
唯一神としての超越者,それと共に在る永遠の世界,そして受肉と云う思想体系を備え
るものとして,仏教からではないとしても,仏教と同様な宗教形態と考えてよいでしょ
う。
 
 キリスト教の拡大による最も大きな変容の一つは,イスラム教の成立でしょう。ここ
では,天地創造と終末の概念を明確に持っています。しかし受肉の概念は後退してしま
いました。それよって論理的に不完全になってしまったのは,前述のように,モハメッ
ドが神を見たと云う言葉を,後になって取り消さなければならなかったと云うことに表
れています。
 論理の後退と云う場合,補足しますと,キリスト教と仏教が人間の論理にとっては最
高の形態であると言っているのであって,信仰の行為自体は論理ではなく,一個の人間
も決して論理的でありきれる存在ではありません。イスラム教徒の熱烈な信仰は,我々
のよく知るところです。
 
 宗教と云う表現に抵抗があるかも知れませんが,マルクシズムもキリスト教から生ま
れた一つの変容でした。
 歴史が一つの方向に向かって流れており,未来の一点に,あらゆる対立の解消する理
想社会があります。それに向かって人間は努力し,それは革命によって一度に出現する
と考えるマルクシズムが,西方キリスト教的であることを述べましたが,神の概念は脱
落しました。神が世界を創り,歴史が一方向的に流れていると考えることによって,そ
の歴史の流れに従うと云う意識が生まれますが,神を脱落させますと,その歴史に従わ
なければならない必然性が無くなります。論理的には,従って後退がありますが,しか
しここでも,現実にそれで動いていました(とされます)。歴史の流れに従って動こう
と云うことは,脱落させた神をなお認めていると云うことであって,キリスト教の一変
容と十分見なし得るものでしょう。
 
△現在とのかかわり
 ここで再び,冒頭に挙げた幾つかの実例を見直してみましょう。建前タテマエと本音のま
たその奧に在る,どちらでもいいと云う心情が,生と滅の境を取り払った仏教の思想に
よって培われたものであることがお分かりでしょう。或いは仏教以前にある森林的思考,
即ち人間がこうと定めた道を外れて迷うことによって,却って桃源郷に至ると云う世界
の思考であるのかも知れません。
 
 ドイツ人は例えば,道を問われますと,間違っていても教えると云う態度は,勿論,
間違っていると知っていて教えるのではなく,キリスト教の世界にあるのは常に決断で
あるのだからです。キリスト教の中にある,基本的な思想の一つである,歴史の一回性,
歴史が直線的に一方向に進んでいると考えますと,瞬間,瞬間の人の行為は,「分かり
ません」ではなく,決断してAでなければ非Aの方向へ歩いて行くことになります。こ
こでも,キリスト教以前の砂漠の思考,即ちある道が水場に至る道であるか否かを,決
断して進まなければならない世界の思考を引き継いでいるのです。
 
 美術と学問においても,わが国では視点が地上の一角にあり,其処から四周を見渡し,
見える範囲のことを精密に組み立てて行くと云うことでした。これも,バラモン教から
仏教を経て引き継がれた,宇宙の中心が我であると云う視点に拠るものでしょう。そし
てそれは森林の中の瞑想に始まる思想でした。
 それに対してヨーロッパの美術も学問も,三次元的,俯瞰的視点を持つものであり,
それは天地創造の概念を持つキリスト教の世界観の視点であり,見通しの良い,砂漠の
思想の延長にあるものでした。
 
 また,森林的・仏教的世界では「我」が宇宙の中心の一つであり,従って科学と云う厳
粛な行為をする時には,一点一画を忽ユルガせにせず,厳しい学問を積み上げて行くのに
対し,砂漠的・キリスト教世界では,片々たる人間は,世界はこう見えるとしか言うほか
なく,科学は寧ろ軽やかな行為であり,見通しの広さと云うことと相まって,新しい理
論・体系を次々に生み出して行くことになりました。説と云うのは,本来,消耗品であ
り,生き残る学説よりは短命である学説の方が多いのは当然です。それに対して,森林
の積み上げ方式の学問は,いわば職人芸による耐久材であり,生命は長いけれども,多
くの場合それは部品であって,全体の構成に大きな影響を与えることは少なかった。
 
 森林の民は,自分が宇宙の中心なのですから,物事の説明,証明は本質的に可能であ
ると思い,こつこつと事実を積み上げて行きますが,片々たる砂漠の民は一人の人間の
存在すら証明することは出来ず,ただその存在を信ずるだけであると考え,また,積み
上げによって事実が明らかになるのを坐して待っていることは出来ず,与えられた少数
のデータからだけでも全体を判断し,行動に移ることになります。日常的な言葉で言い
ますと,気長と短期と云うことになりましょうが,それは,日々の生活環境が,一方は
恵みに満ち,他方は過酷な処と云うことであり,更に,世界が無限に続くと考えるか有
限と考えるかによるものでしょう。終末論と云うような言葉が使われ,終末の到来のた
めに「目を覚ましおれ」と云う言葉が聖書によって日々教えられているヨーロッパの世
界なのです。
 
 二つの間には,対立が起こり得ます。森林的な民は砂漠的な学問を軽率・浅薄と避難す
ることがあるでしょう。反対に,砂漠の民は,森林的な学問を,全体を見失ったものと
批判し,また,抑も,積み上げ方式で何れは全体を知覚し得ると云う幻想を,人間の傲
慢であると避難することも出来るでしょう。森林と砂漠,仏教とキリスト教,東と西と
云う違いは,概念の遊戯,分類嗜好,過去の遺物と云うようなものではなく,自分を仏
教徒でありキリスト教徒であると意識しない人々全てにとっても,現在的な問題なので
す。                             本稿終わり SYSOP

[バック]