09 森林の思考・砂漠の思考〈仏教とキリスト教〉
 
             参考:日本放送出版協会発行「森林の思考・砂漠の思考」
 
△語り難いということ
 イスラエルの民が到達した超越者である唯一神は,それが,正に超越的であるが故に,
人間の言葉で言い表すことが困難であり,イスラエルの民は,神の名を人間の言葉で表
現することを躊躇タメラいました。
 バラモン教においても同様でした。ブラフマンなりアートマンなり,人間がこれこそ
本質であると考えるものは,正にその本質性の故に,人間の通常の言葉で表現出来るも
のでないから,「不可捉,不可壌,無着,無縛,無畏,不被害」と云うような,否定形
の集合によって,その本質を表現するようになりました。
 あるものがあるものよりも勝ると云う人間の持つ論理の進展によって,人間は,多神
から主神へ,主神から唯一神へと概念を発展させて行きましたが,その唯一神が,万物
を動かし,従って万物を超越するものであると云う認識が高まるにつれ,その万物のう
ちの一つである人間が,その超越者を直接的には理解し得るものではないと云う論理が
更に働くことになります。
 
 従って,人間が超越者の少なくとも一部を理解し得るのは,超越者が人間の形を執っ
て現れ,それによって,人間が人間なりに超越者の(意志の)一部を理解し得ると云う
ことになります。超越者が人間の形を執ること,即ち受肉(インカーネーション)と云
うことが人間に執って最も重要なことになります。イスラエルではナザレの寒村に生ま
れた大工イエスがその人であり,またインドでは,ネパール近くに生まれたブッダがそ
の人であると理解されました。こうして,キリスト教と仏教と云う極めて論理的な二つ
の宗教が生まれ,そしてその論理性の故に,世界の多くの部分に拡大して行くことにな
ります。人間は必ずしも論理的な存在ではありませんので,それ以前の論理段階にある
諸宗教も依然として存在しています。仏教とほぼ並行して形成されたヒンドゥー教は,
超越者が,独りゴータマにおいて受肉したのではなく,目の見える様々なものへ顕現し
ていると考えるのも,一見,多神教的であるが,基本的には一神教と考えるべきもので
す。その限りにおいて,十分論理的です。
 
 しかし,イスラム教は,キリスト教より後に出現し,甚だ強烈な色彩の唯一神教です
が,キリスト教より論理的に後退しました。モハメッドは,初め神を見たと言いました
が,それが,神の超越性,唯一性に矛盾することを指摘されて,後に,自分の見たもの
は天使であったと改めざるを得ませんでした。
 
△天地創造と万物流転
 キリスト教と仏教はこのように極めて類似した性格の宗教ですが,一方,甚だ大きい
相違もあります。それは超越者と世界との関係に関するもので,本稿の主題である砂漠
と森林,西と東の違いが,正に,其処に発しています。
 イスラエルにおいては,神は,嵐の神を通して理解されたものであり,それは,砂漠
の中では芥子粒ケシツブにしか見えない人間の知力を画然した動きを持つものであって,そ
ういう微々たる人間が存在するのは,神によって存在せしめられたもの,即ち神によっ
て創造せられたものであると云う考えが成立し,それが万物に及んで,天地創造と云う
概念に達しました。即ち,時間も空間も含めて,全てのものが天地創造の時に造られ,
終末の時に終わると考えます。天地創造と終末と云う概念は,日本人には甚だ理解しに
くいが,キリスト教の世界では日常のことであり,ヨーロッパでは,近代地質学が誕生
するまで,その天地創造は,紀元前5492年であったと云うような計算までなされており,
抑もその近代地質学が発展したのは,天地創造の時から現代に至るまでの歴史の中に示
された神の摂理をよりよく知ろうと云う動機によって発展したものです。
 
 終末については本来,終末とは縁のなかったわが国においても翻訳を通じ,また翻訳
的思想文章を通じて出版文化の中だけではあるとしても,終末論と云う言葉を流行させ
た程,ヨーロッパでは生活の中の基本的概念の一つです。ヨーロッパよりも古いキリス
ト教国にであるエチオピアでは,終末が来るとすればこの日である,と云う日が暦にあ
って,毎年,何日か回って来ています。
 
 これに対し仏教では,超越者或いは究極者と云うものの理解が根本的に違っていまし
た。インドの森林の中で瞑想した本質は,梵我一如でした。其処では,我と云うものは,
砂漠の中の芥子粒のような存在とは反対に,宇宙の中心でした。寧ろ,我だけが本質で,
他のものは存在のあやふやなもので,ブラフマンの存在の説明も苦しいところがありま
した。それと並行して,インドでは,否定の論理が発展しました。人間が,こうだと考
えたところに − 正に人間によって考え付かれてしまうような存在ではあり得ないと云
う理由によって − 本質は無いと云う論理です。そういう論理の展開する処では,物事
の断定が行われなくなります。ヨーロッパでは,生と滅は反対概念です。生であれば滅
ではない。滅であれば生ではない。ところが,インドでは,生と云うものは滅があって
初めて存在し得るものであるから,生と云うものは,それ自身存在するものではないが,
しかし,それは存在します。生も滅もないが,生も滅もある,と云う論理を展開します。
こういう論理は一見,屁理屈のような気もしますが,しかし,人間が死を見つめて思索
する時には,生と滅の境を取り払う力強い論理であることを感ずるでしょう。
 
 生と滅,親と子,夫と妻,男と女,全てがそれ自身では存在し得ませんが,それは存
在します。インドでは,このような全てのものが,互いに相い待って存在すると考えま
す。仏教ではこれを空と表現しました。空と云いますと否定的,虚無的に響きがありま
すが,それは,恰も,生なり,親なり,夫なり,男なりが自ら存在するかの如くに思わ
れがちですが,そうではなく,空とは正に「在る」ことを示しているのです。
 我々の経験する宇宙の全ての物が相い待って存在します。即ち全てのものは相待です。
空なのです。
 
 超越者或いは究極者と云うものは,そういう天地万物の全てとまた相い待って存在し
ます。これは絶待者と呼ばれます。空のまた空,即ち空の空です。空の空は,虚無では
なく,天地万物をあらしめるもの,宇宙に充ち満ちた有るものです。仏教のこの,空の
空の思想は,バラモン教の,「増大する」と云う意味のブラフマンと云う力の概念の延
長にあることは明らかでしょう。
 さて,これからが問題です。天地万物は,絶待者と共に有るものです。絶待者が無く
なると云うことは考えられません。従って,天地万物もまた無くなることはありません。
ここでは,万物は永遠に流転します。天地創造も終末もありません。この結論は,宇宙
の中心であり,本質でもあり,我即ちアートマンの不滅をも当然含むものであり,バラ
モン教からの自然の発展なのです。
 
 ところで,このような東西二つの論理の分かれる道は,どうして起こったのでしょう
か。そこに,砂漠と森林が関わっていると筆者は考えます。砂漠では,ある一つの道が
水場に至る道であるか否かどちらかに決断をしなければなりません。その道が生への道
であると判断することは,他の道は滅への道であると判断することです。それに対して,
森林には,生が充ち満ちています。生への道か滅への道か思い煩う必要がありません。
生と滅を区別する必要がありません。人間が,これだと思った道から迷うことによって,
却って桃源郷を発見するのです。
 
 仏教において我の意識が強く,結局,我を不滅にするような論理を展開させたのも,
森林の中で独り息突いて瞑想するバラモン教の思想に発すると云う点にもまた,森林的
と云う形容詞を付することが出来ます。
 天地万物が,永遠に流転を繰り返すと考えるか,天地に初めがあり終わりがあると考
えるか,人間の論理ではどちらかしかないでしょう。前者は仏教の世界観であり,後者
はキリスト教の世界観です。仏教を生んだのが森林であり,キリスト教を生んだのが,
砂漠でした。ここにおいて,森林的,砂漠的という二区分が,決して浅薄な,安易な区
分でなく,人間にとって本質的な区分であることを理解していただけたと思います。一
人の人間も,一つの民族も,決して完全に論理的な存在でありきることは出来ませんの
で,二つの要素が共存していることは,寧ろ一般的であり,中間的な色彩を持つものが
屡々観察されますけれども,本質的に,森林的か,砂漠的か,二つに一つなのです。
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