02 森林の思考・砂漠の思考〈下からの視点・上からの視点〉
参考:日本放送出版協会発行「森林の思考・砂漠の思考」
(昭和53年第1刷・昭和62年第31刷発行)
何故「砂漠」の大陸が出来上がったので
しょうか,そしてまた,何故に「聖書」に
基づく一神教の宗教が確立したのでしょう
か,と以前から疑問に思っていました。
「私は,世界にはじめと終りがあるか、
それとも永遠に続くと考えるかという二つ
の世界観を成立させた場所が、それぞれ砂
漠と森林であったと考えている。物の考え
方というものは、個人のものだけでなく、
社会を構成するものであるから、社会の動
きにともなって、考え方も空間的な伝播を
しており、かならずしも現在の砂漠地帯と
森林地帯とに対応しているのではないが、
地球の上にはこの二つの世界観が存在して
いる。そして、われわれの日常の行動が、
このどちらかの世界観に規定されておこな
われている。また、時には、二つの世界観
に交々支配されていることもある。」と著
者の鈴木秀夫氏が,その「はしがき」で述
べておられます。
私SYSOPは長い間,「森林」に関する仕事
に従事していましたので,書店でふと,こ
の図書が目に入り,買い求めたのが十数年
前でした。
この書籍を読ましていただいて,冒頭の
疑問に自分なりの解決を得ました。今また
目を通して,このことを再確認しました。
本稿は,鈴木秀夫氏著「森林の思考・砂
漠の思考」を参考にさせていただき,その
一部を採り上げて記述してみました。
H12.02.29 SYSOP
〈下からの視点・上からの視点〉
東の世界では,人間の視点が地表の一点にあります。その世界とは,その人がぐるっ
と回って見えるものが全てです。其処では,物と物とは配列の関係において理解されま
す。配列は線で示されるものであり,線の美しさを知るようになります。その発展の典
型的な例が浮世絵であると云います。
それに対して西の世界では,人間の視点は地表ではなく,天とは言わないまでも,空
の何処かにあり,斜め上から下を観る鳥瞰チョウカンの視点があります。其処では物の一つひ
とつが,三次元的存在として意識され,物の奥行き,或いは「量感」と表現される感覚
が発達しています。
例えばわが国の洋画の大家と云われる作品にも,空間の破綻があると云われています。
と云うことは,そもそも日本人には,「量」の美しさを感じ得ていないからであると云
います。
その「空間の破綻」と云うのが,洋画の技法の習得の程度と云うことではなく,心の
問題であると云うものです。映画でも,美術でも,このような傾向があると云います。
東西の視点がこのように違っているのは何故でしょうか。此処にも,森林と砂漠の違
いが反映していると考え得るのです。
森林の中では,人は地表の一点に定着しています。人は,周りの樹林と真上の天を見
上げる存在です。その見ている樹木と天が,森林に生きる人の世界なのです。天の神も,
森の霊も,全てのものが,目の前の「森林」を舞台として活動します。
一方,砂漠の世界では,人は,一点に居て生活することは出来ません。意識の中では
常に,鳥の高さで広域を見通していなければなりません。其処では,物とは,はっきり
と三次元の存在です。森林の民の視点が「下から上へ」であるのに対して,砂漠の民の
視点は「上から下へ」と云うことになります。
この砂漠の視点が,ユダヤ教やキリスト教を媒介として,西洋社会の全般の視点とし
て浸透したと云えます。
これらの宗教による,天地が神によって創造されたと云う意識は,物の一つひとつを,
量と形を持った被造物として三次元的に「観る」ことでした。砂漠の縁辺部に発生した
これらの宗教は明確な一神教ですが,一神教の持つ論理的優性によって,砂漠を越えて,
ヨーロッパの森林地帯にも浸透し,其処にも,この「上から下を観る」と云う砂漠的視
点を植え付けたのです。
このことは,都市景観と建物内部の違いからも感じられます(昭和53年以前のこと)。
ヨーロッパの町は,外から全体として眺めると大変に美しい。具体的には法律によっ
て,一定の建築様式しか許されないようになっている処が多いが,それによって,町全
体としての美しさを目指しています。ところが,町の建物の中に入って見ると,恐ろし
く不細工で,薄暗く,無趣味なものが一般的です。
これに対してわが国では,上から観て美しいと思える町は珍しい。ところが,みすぼ
らしい,しもたやに入っても,中は小綺麗に物が配列されて,情緒豊かです。其処での
視点は,人間の位置にあり,其処から見て美しいことが第一なのです。その典型が縁側
と庭と借景の配列です。
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