03b 修験道と仏教1
 
〈鎌倉仏教と修験道〉
 鎌倉新仏教の祖師の殆どは,山岳仏教の中枢において独自の修験を生み出した比叡山
において学んでいます。それに加えて教線を伸ばすに当たって各地の霊山や在地修験と
競合することも少なくありませんでした。また地域に定着するために山岳信仰と習合し
たり,修験の修法を採り入れています。
 法然(1133〜1212)を開祖とする浄土宗においては,元禄頃に編纂された同宗鎮西派
六千余寺の寺誌集成『蓮門精舎旧詞』に拠りますと,次のことが注目されます。まず浄
土宗寺院が急増するのは天正期(1573〜92)で,その多くは廟・堂・庵が昇格したもの
です。ただ他宗から転じたもの(計百七十,総数,以下同じ)のうちでは,真言(四十
)・禅(三十四)・天台(十九)など,改宗前の本尊においては観音(四十八)・地蔵
(三十八)・薬師(三十五)などが多い。尤もその全身を修験と明記したものは少なく,
広義に観て修験と関わる開基には,方道仙人が三(摂津・丹波・越中 − 寺の所在国,
以下同じ),義淵が三(大和),役行者(和泉)・日蔵(大和)・円珍(山城)・性空
(岩代)・西行(安房)が各一などがあります。因みに行基八十,聖徳太子二十八,空
海十三です。
 次に修験霊山や山伏との関わりが推測されるものには,熊野比丘尼と思われる熊谷入
道の娘鶴(雨冠+鶴)姫開祖と伝える信濃の熊野山仏導寺,空師上人(一説には法然)
が熊野参詣の際に創設した紀伊国野上の法然寺(1601に改宗),境内の鎮守に熊野を祀
る相模国戸塚の西立寺(1555に建立),肥前八木村の浄安寺(1594建立),葛城修験の
長円が創設した大和国名柄村の竜正寺(1040頃),建暦年中(1211〜13)彦山座主蔵慶
と山麓において修行中の聖光が唐から招来した善導に像を祀った博多の善導寺,吾妻大
権現を鎮守とする伊豆国網代の教安寺,白山権現の神宮寺であった越前国岡本村の法源
寺(1644改宗),山上の蔵王堂を鎮守とする相模国上野場村の蔵王山浄念寺,飯縄権現
を鎮守とする武蔵国小机川和の天宗寺,山伏が阿弥陀像を持って来て祀った武蔵国三田
二本榎の松光寺などがあります。
 法然の弟子親鸞(1173〜1262)が開いた浄土真宗においても,山岳信仰や山伏との関
係が認められます。親鸞の孫覚如の手になる『本願寺聖人親鸞伝絵』(『御伝鈔』)に
拠りますと,親鸞は建保二年(1214)流刑地の越後を跡にして,常陸国稲田に移住して
布教に当たりますが,この頃これを妨げ彼を殺害しようとした山伏弁円を帰依させ,明
法房と云う法名を与えて弟子にしました。尤も親鸞は,同国那珂郡大部郷に居た篤信者
平太郎が,地頭の熊野詣に随従することの是非を尋ねたとき,熊野権現の本地は阿弥陀
如来ゆえ,その誓願を信じて一向に念仏を唱えればよい,と容認しています。因みに平
太郎は熊野参詣の夜,権現から逆に礼拝されましたので真仏と称され,熊野から京に到
るまでに二万八千人を教化したとされています。なお親鸞の外孫(娘覚信の子)唯善は,
仁和寺相応坊守助僧正の弟子の修験者で,弘雅阿闍梨と名乗りましたが,親鸞の子唯円
の弟子となり,唯善と改名した者です。
 浄土真宗発展の基盤を作った蓮如(1415〜99)は,永享三年(1431)に出家し,山門
三門跡の一つ青蓮院准三后尊応の弟子となり,更に興福寺大乗院経覚から法相宗を学び
ました。その後本願寺八世となりましたが,比叡山衆徒に本願寺が焼き討ちされました
ので,五年近く大津三井寺の南別所に居ました。このように広く他宗を学んだ蓮如は,
真宗の阿弥陀信仰を法相・天台・密教の阿弥陀信仰,白山・石動山・八幡・熊野・伊勢
の阿弥陀信仰を純化したものと捉え,これらの旧勢力との摩擦を出来るだけ少なくして,
北陸地方から東海地方・東国の鉱山などに携わる山民や,大坂・近江の港の民に積極的
に布教しました。因みに彼の三男北隣坊蓮綱は,鉱山が近くにあった旧白山末院鮎滝坊
を真宗に改宗させて波佐谷坊とし,此処を拠点に北陸地方へ布教しています。
 なお,白山が叡山末であったこともあって,天台宗青蓮院門跡に属した大谷一族の中
には,玄真系の如順(平泉寺両界院住)・中快(平泉寺住),頓円系においては慶恵(
浄徳寺,粟津長久寺染王院道忠弟子)・慶春(平泉寺等地院住)・言忠(平泉寺染王院
道忠弟子)・公誓(堅田慈敬寺弟子・薬師寺)など,白山系の寺坊に住したものも多か
った。更に白山系の高瀬神宮寺の子坊に淵源を持つ井波瑞泉寺がある他,白山美濃馬場
石徹白,白山末院の加賀那谷寺など,白山の中心にまで侵入しました。そして北陸地方
においては白山信仰圏内に教勢を伸ばして行ったのです。そのせいでしょうか,白山衆
と本願寺衆の間には個人的な繋がりが生まれ,白山大衆が一向一揆に加担しさえしたの
でした。
 時宗の祖一遍(1239〜89)は文永十年(1273)に半年間,生地近くの伊予国浮穴郡菅
生の岩屋寺に篭もって修行しました。岩屋寺には鎖禅定によって達する山頂に白山明神,
山中に四十九の岩屋がありました。此処において遊行回国を決意した彼は同年夏,熊野
本宮証誠殿に参篭して神示を受けて賦算を始めました。その後一遍は京都の因幡堂,信
濃善光寺を巡りますが,この両所は東寺聖護院が支配していました。こうしたこともあ
ってでしょうか,時宗は聖護院門跡が三山検校を勤めた熊野や善光寺如来の信仰と結び
付いて,教線を伸ばしています。
 彼の後を継いだ真教は,北陸地方から関東地方にかけて遊行し,晩年に相模の当麻寺
に無量光寺を開きました。この遊行の際に甲斐国富士吉田の富士道者の寺西念寺や,同
国北巨摩郡須玉町の温泉にあった熊野権現内の真言宗寺院長泉寺を時宗に改宗していま
す。なお真教の弟子で三世の智得は,無量光寺の鎮守として熊野・妙見・白山を祀って
います。
 一方一向派の祖俊聖は,弘安年間(1278〜88)に下野国上都賀郡西方村に熊野山西方
福正寺を建立しました。また同派の専阿は,聖徳太子作の熊野神像を持って遊行の途中,
熊野権現の化身の老翁の指示によって下野国芳賀郡益子にこの神像を祀って,正宗寺を
開いたと云います。このほか国阿派の祖の国阿弥陀仏も,永和元年(1375)に熊野三所
権現に詣でています。更に山城国淀の時衆道場の時衆を始め,各地の時衆の阿弥陀仏が
熊野に詣でています。
 なお時宗の遊行派においては,歴代毎の門弟を記した『往古過去帳』を伝えますが,
これには霊山の修験や神官が散見します。この主なものには,十四世紀後半の越後国蔵
王堂の住僧(十五名),応安年間(1368〜75)の越後国弥彦神社の神官池氏(五名),
十四世紀末の越後関山金光寺の歴代別当(八名),同じ頃加賀白山比羊(口偏+羊)神
社神主であった三阿弥陀仏などがあります。
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