03c 修験道と仏教1
 
 臨済宗の祖栄西(1141〜1215)は,備中吉備津神社の社司賀陽氏の出身で,比叡山に
おいて台密を修め,入宋して虚庵懐敞から臨済宗黄竜派と戒律を学んで,帰国して臨済
宗を開きました。この臨済宗の法灯派の祖無本覚心(1207〜98)は,高野山において修
行後,熊野路の紀伊国由良に西方寺を構え,熊野参詣者に禅を教えました。なお伝承で
は,彼は母と共に熊野に詣で,那智の死霊の山妙法山や新宮の神倉山において修行し,
母を熊野比丘尼の本拠の神倉本願妙心寺に留めたと云います。なお彼は高野山の萱堂聖
の祖としても知られています。次に伊勢の皇大神宮の奥院とされ,死霊崇拝で知られた
真言宗の古刹朝熊山金剛証寺は,永徳年間(1381〜84)に鎌倉建長寺五世東学文立(日
冠+立)の働きかけによって臨済宗に改宗しました。また高峰顕日(1241〜1316)は真
言修験道場の那須雲岩寺を同宗に改宗させ開山になっています。
 出家山居主義を標榜した曹洞宗の祖道元(1200〜53)は,越前志比荘に大仏寺(後の
永平寺)を開いて,同宗の根本道場としました。けれども彼の死後,純粋禅よりも教団
発展を主張した弟子の徹通(1219〜1309)は,永平寺を出て加賀の大乗寺に寄りました。
その弟子瑩山紹瑾(1268〜1325)は,能登に永光・総持の両寺を造り,能登出身の峨山
紹碩(1275〜1365)に両寺を管理させました。この両寺は能登の石動山信仰と習合して
教勢を伸ばして行きました。また峨山の弟子大徹宗令(1330〜1408)は,越中の立山山
麓に立川寺(後の立山寺)を開きましたが,その際に立山神の化身の樵夫が伽藍の創設
に協力したと云います。更にその門下の普門元三・丹江広雲は,立山参詣路の岩峅寺近
くに寺を設けて,立山修験を取り込んで行きました。関東地方においては矢張り峨山の
流れを汲む相模の了庵慧明(1337〜1411)が箱根に大雄山最乗寺を開きましたが,この
折は園城寺の修験の道了,箱根や相模大山の山の神が協力し,道了は後に天狗となり,
道了大権現として伽藍神に祀られました。この他峨山門下の通幻寂霊(1223〜1417)は
細川頼之の外護の下に丹波の修験道場永沢寺を改宗させて拠点としています。
 このように,曹洞宗寺院の建立に当たって山伏や山の神が協力し,曹洞宗の僧侶がこ
れに授戒したり,共に修験的な験力を行使したことの伝承は,他にも数多く認められま
す。なお永平寺が白山越前馬場の平泉寺に近かったこともあって,曹洞宗寺院において
は白山社が鎮守として勧請されることが多かった。例えば近江国の洞寿院においては,
近くの白山妙理権現を護法神としています。このほかでは紹瑾の弟子大智が,島原本覚
寺において如法経を書写して,筑後の修験道場高良山の高良玉垂命神社に納められてい
ます。また羽黒山麓の東田川郡泉村玉川にあって,羽黒一山とも関係を持った玉泉寺は,
高麗から来日した曹洞僧の了然を開基とし,遠江国佐野郡本郷村の松堂高盛再建の長福
寺においては,鐘楼の鐘が大峰山に飛行したとの伝承を持っています。
 ところで曹洞宗寺院においては,在俗者や他宗の者を対象に授戒会を行っていました
が,愛知県知多郡乾坤院には授戒者を記した文明九年(1477)の『血脉衆』と延徳二年
(1490)の『小師帳』を伝えています。これを観ますと,文明十五年(1483)八月十六
日に天狗小僧阿弥陀院と称する山伏が授戒して,長因との法名を受け,藤九郎・種月南
英の師となっています。
 また曹洞宗においては中世後期から多くの切紙が作られましたが,その一つ「白山鎮
守の切紙」には,葬儀が終わった後,寺院鎮守の白山社に参詣して諷経することによっ
て不浄を避ける際の作法が記されています。このほか,切紙の中には修験の切紙と類似
したものが数多く認められます。
 日蓮(1222〜82)は安房国小湊の漁民の出身で,十二歳のとき天台密教の山岳寺院で
あった清澄寺に登りました。その後鎌倉・比叡山・京都・三井寺・高野山・四天王寺な
どにおいて修行し,建長五年(1253)日蓮宗を開教し,積極的に布教しました。その際
に山伏を折伏した話も幾つか伝わっています。
 特に有名にのは文永十一年(1274)東国三十三カ国の山伏の司であった甲斐国小室の
恵朝阿闍梨善智法印との験競べと法論です。まず験競べは,善智が日蓮が腰掛けていた
大石を金剛の秘法によって中天に挙げました,すると日蓮は題目を唱えてこの大石を中
空に留めてしまいました。験競べのみでなく法論にも負けた善智は,服従した振りをし
て毒入りの粟餅を献じて日蓮を殺そうとしました。怪しんだ日蓮がこの餅を白犬に与え
ますと犬が死にました。そこで善智は前非を悔いて弟子となり,肥前坊阿闍梨日伝の名
を与えられました。日伝は自坊を小室山妙法寺とし,日蓮を開山として二祖となり,身
延山内に志摩坊を開創するなどして,以後六十一年間に亘って,法華経の流布に努めて,
中老に列せられました。なお佐渡にも日蓮が山伏と験競べをして,山伏が大石を天に舞
上がらせたのに対し,日蓮がこれを呼び戻して山伏を下敷にして殺したとの話が伝わっ
ています。
 日蓮の死後は日朗等六老僧が中心になって,日蓮宗の布教に当たりました。日朗の弟
子日像は京都の布教を志し,北陸地方に出て佐渡の日蓮の遺跡を廻った後,七尾への船
中において石動山天平寺座主満蔵法印と問答し,折伏しました。更にその際大波に襲わ
れたのを題目によって波を鎮め,満蔵や船主等を弟子としました。満蔵は能登国羽咋に
妙成寺を建立し,日像を開山として自分は二祖となり,法華経の教えを北陸地方に広め
ました。
 日蓮の廟所身延山においては十六世紀末頃,身延山十三世日伝が身延山東谷の積善坊
に寄住して,七面山において持呪唱題の修行をし,七面天女から修験の術を伝授され,
積善坊流を始めました。七面山においてはこのほか,三千日参詣して荒行の祖とされた
仙応坊日慧,その弟子で現在の木剣加持の基をなす楊枝加持を編み出し,積善坊流を中
興した仙寿日閑等が修行して,宗内において修験と呼ばれる日蓮宗の修行や修法を確立
しました。その後元禄五年(1692)中山法華経寺の遠寿院日久は,身延において積善坊
流の相伝を受け,これを基に中山に遠寿院流の祈祷法を確立しました。因みに『祈祷肝
文鈔』に拠りますと,この修法は災因を死霊・生霊・野狐・疫神・呪詛のせいとし,呪
文によってこれを祓うものです。なお享保十七年(1732)刊の日栄による『修験故事便
覧』には,祈祷・修法・祭などの故事が記されています。こうした近世期に隆盛した日
蓮宗の修行・修法は,その多くが中世後期の修験道のものを踏襲しています。

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