82 菅家文草〈書斎記〉
参考:太宰府天満宮文化研究所発行「菅家の文華」
〈書斎記〉
東の京の宣風坊に一の家あり。家の坤ヒツジサルの維スミに一廊(隅の部屋)あり。廊の南
の極カギリに一局(部屋)あり。局の開ける纔ワズかに一丈余り、歩を投ハコぶ者は進退に傍
行し、身を容イるる者は起居に席を側ソバダつ。是より先き、秀才進士の此の局より出づ
る者、首尾略ホボ計カゾへて百人に近し。故に学者、この局を目ナヅけて龍門と為す。又、
山陰亭と号ナヅく。小山の西に在るを以ってなり。
余、秀才と為りし始め、家君数を下して曰く、「此の局は名ある処なり。讃仰の間(
先哲の徳を仰ぎ慕う意から学問研鑽の意)、汝が宿盧(居間)と為せ」と。余、即便
スナワチ簾席レンセキ(書斎)を移して以って之を整え、書籍を運んで以って之を安オく。
嗟処(處の処の代わりに乎)アア、地勢狭隘なり、人情崎嶇キク(嶮しい)なり。凡そ厥ソ
れ、朋友親なるあり、疎なるあり。或ひは心合カナふの好ヨシビ無けれど、顔色和らげるが
如きあり、或ひは首陀シュダの嫌ウタガイあれど(最も下等な人みたいだが)、語言は眤ムツマ
じきに似たり。或ひは蒙モウを撃つと名ナヅけて(不明な点を解明するとの口実で)、直ち
に休息の座を突く。
又、刀筆は、書を写し(筆)、膠ニカワを削る(刀)の具なり。烏合の衆に至りては、其
物の用を知らず、刀を操トりては則ち几案キアン(机)を削り損ひ、筆を弄びては忽ちに書
籍を汚穢ケガす。
又、学問は抄出ショウシュツ(要点の書き抜き)を宗となす。抄出の用は藁草コウソウ(下書き
)を本と為す。余は公平(後漢の人、美文家で有名)の才に非ざれば、未だ停滞の筆を
免れず。故にこの間に在りとある短札は、惣て是れ抄出の藁草なり。而るに濫ミダに入る
人は、その心察し難し。智サトリ有る者は、之を見て卷きて以って懐にし、智無き者は、之
を取りて破りて以って棄つ。此らの数事は内に疚ヤむの切なるものなり。自外コレヨリホカの事
は米塩も量り難し(接待の費用も馬鹿にならぬ)。
又、朋友の中頗る要須(必要)の人有り。適々タマタマ用有るに依りて、入りて簾中レンチュウ
に在り。濫入ランニュウする者、先に入りしひとの用有るを審かにせず、直ちに後に来るひと
の要ならざるを容イる。亦何ぞ悲しむべけん。・・・・・・。
其れ薫公トウコウは帷トバリを垂れ(漢の薫仲舒は子弟の教授に熱心のあまり、三年の間わ
が家の庭を見なかった)、薜子は壁を踏む(陏の薜道衡は文の構想を練るときは書斎に
隠れ壁を踏んで臥し、戸外に人あれば怒ったと云う)、止タダに研精ケンセイの至りのみに非
ず、抑ソモソも亦安閑の意あり。
余、今此の文を作る、豈に絶交の論ならんや。唯、悶モダエを発ヒラくの文なるのみ。殊
に慙ハづらくは、門(門構+困)外コンガイに集賢の堂を設けず(敷居の外に応接室を設け
ない)、簾中に濫入の制を設くること。我を知らざる者の為なり。唯、我を知る者は、
其の人三許人ミタリバカリ有るのみ。恐らくは(「願はくは」の誤用か)、燕雀の小羅ショウラを
避け(詰まらぬ人は近付かず)、鳳凰(我を知る者)の増し逝くこと有らんことを。
悚息ショウソク々々。癸ミズノト丑ウシの歳七月一日記す。
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