83 菅家文草〈文章院、漢書竟宴、各詠史、得公孫弘〉
参考:太宰府天満宮文化研究所発行「菅家の文華」
〈文章院、漢書竟宴、各詠史、得公孫弘〉 − 文章院モンジョウイン、漢書竟宴、各オノオノ史を
詠じ、公孫弘を得たり。
六十初徴八十終 六十にして初めて徴メされ、八十にして終ふ
官班博士遂三公 官班カンパンは博士ハカセより遂に三公
大常対策科為一 大常(太常)タイジョウの対策、科して一と為す
丞相招賢閣在東 丞相賢を招く、閣クグリドは東に在り
何忌牧童疲望海 何ぞ忌まむ、牧童の疲れて海を望むを
不愁布被耐寒風 愁へず、布被フヒの寒風に耐ふるを
後世欲学才名高 後世才名高きを学ばんと欲せば
請見孫公我道通 請ふ見よ、孫公の我道を通じたるを
六十才で初めて召され、八十才で没した。
召された時の官は博士、没する時は三公。
かって試験官の太常からは成績下と評価されたのに、武帝はこれを首席と判定した。
後に丞相となるや、東閣と名付ける館を建てて天下の賢人を招いた。
初め家が貧しいため、海浜で豚の飼育にこき使われたが、
丞相になっても粗衣を身に着けて意に介せず、暖衣することはなかった。
後人にして、何故公孫弘の才名が高かったかを知りたいと思うならば、
倹を旨とし、財を軽んじ、賢を招く − これ公孫弘の生活信条にして、それは私と通ず
るものであることを知ろう。
「太常」とは、宗廟・礼儀を司る官。
〈諸公卿の遣唐使進止を議定せしめられんことを請ふの状〉
右、臣某、謹んで在唐の僧中權(權の木偏の代わりに王偏)の、去年三月、商客王訥等
に附して到る所の録記を案ずるに、大唐の凋弊チョウヘイ、之を載ノすること具ツブサなり。更
に問はざるの問を告げて、終に入唐の人を停めよといふ。中權(權の木偏の代わりに王
偏)は区々の旅僧なりと雖ども、聖朝の為に其の誠を尽す。代馬ダイバ・越鳥エッチョウ、豈に
習性に非ずや(母国を愛する故である)。
臣等伏して旧記を検するに、度々の使等、或ひは海を渡りて命に堪へざる者有り、或
ひは賊に遭ひて遂に身を亡ぼす者有り。唯に唐に至って難阻飢寒の悲しみを見るのみに
あらず。中權(權の木偏の代わりに王偏)の申報する所の如き、未然の事推して知るべ
し。
臣等伏して願はくば、中權(權の木偏の代わりに王偏)の録記の状を以って、遍ねく
公卿博士に下し、詳らかに其の可否を定められんことを。国の大事にして独り身の為の
みならず。且シバラく欸誠カンセイ(真心)を陳べて、伏して処分を請ふ。謹みて言モウす。
寛平六年九月十四日、大使参議勘解由次官従四位下兼守右大弁行式部権大輔春宮亮
菅原朝臣某
この建議書には、廃止の理由を二つ挙げている。
一は唐国の疲弊凋落である。このことは昨年三月、かの国に留学中の僧中權(權の木
偏の代わりに王偏)からの書状に認められていた。この頃唐では朱全忠・李克用・李茂貞
等が兵を挙げ、動乱の巷と化していたので、中權(權の木偏の代わりに王偏)の手紙に
は相当具体的なことが書かれていたと考えられる。現に唐はこの後十二年で滅びたので
ある。
二には渡唐の困難である。当時の航海・造船の技術では、無事に東シナ海を押し切るこ
とは難しく、従って四つの船が任を完うして、全員帰国することは稀であった。多くの
船が沈んで幾多の人材を失い、遠く南方に漂流して行方不明になる者も多かった。まし
て最近は新羅の海賊が頻りに暴れている。一昨年も肥前肥後の海岸を荒らしたので、朝
廷は西日本の沿岸に防備を命じている。遣唐使がこれに襲われる如きことがあれば、国
威を賭けての接触になり兼ねない。
そして九月三十日には、これを容れて廃止に決定した。斯くて二百余年に亘る彼我の
正式の国交は断たれた。
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