79 菅家文草〈城山の神を祭るの文〉
参考:太宰府天満宮文化研究所発行「菅家の文華」
〈城山キヤマの神を祭るの文〉
惟コれ仁和四年、歳戊申ボシンに次ヤドる五月癸巳キシの朔ツイタチに、守正五位下菅原朝臣某、
酒菓シュカ香幣コウヘイの奠テン(お供物)を以って、慎みて城山の神を祭る。
四月より以降コノカタ、旬に渉りて雨稀なり。吏民リミンの困クルシミ、苗種も田ウエられず。某忽ち
三亀サンキを解き、五馬を親ウツクしぶ。憂ウレイを分つこと(国司)任に在り、憤を結ぶこと維
コれ悲し。嗟虎(虎の儿の代わりに乎)アア、命メイの数寄スキなる、此の愆アヤマれる序ツイデに
逢へり。政の良からざるか、感の撤トオる无ナきか。
伏して惟オモンみれば、境内山多けれど、此の山のみ独り峻タカし。城中数社あれど、茲コの
社のみ尤も霊あり。是ココに吉日良辰を用モちて祷り請ひ、昭アキらかに告ぐ。誠の至れるな
り、神其れ審ツマビラかにせよ。八十九郷ゴウ、二十万口の若ゴトき、一郷も損ずること无
く、一口も愁ひの无かりせば、敢へて蘋藻ヒンソウ(水草、かたばみも。お供え物)清明に、
玉幣ギョクヘイ重畳チョウジョウして、以って応験オウケンに賽サイし、以って威稜イリョウに飾らざらん
や。若し甘樹(樹の木偏の代わりに三水)カンジュ(慈雨)饒ユタカならず、旱雲カンウン結ぶが
如くば、神の霊見る所无く、人の望み遂に従はざらむ。斯ココに乃ち神をして光無からし
め、人をして怨有らしむるなり。人神共に失して、礼祭或ひは疎オロカならむ。神其れ之を
裁コトワれ。冥祐メイユウ(神助)を惜しむこと勿れ。尚コイネガはくば饗ウけよ。
「三亀を解き、五馬を親しぶ」とは、「三亀」は卜ウラナイに用いる玉兆、瓦兆、原兆の
三種の亀、「五馬」は太守の馬のこと。太守(国司)の車には駟(四頭立て)の外に一
馬を附する故に云う。従ってこの句の意は、生物を放生して神意を悦ばしむると共に、
亀は雨に縁ある水中の霊なるものであり、また馬は古来晴天を乞うには白馬を、降雨を
乞うには黒馬を神前に供える故実があるので、その意をも含むものであろう。
「八十九郷、二十万口」とは、讃岐国の郷数と人口の概数である。先に「路遇白頭翁
」中に「四万余戸荊棘を生じ、十有一県爨煙無し」とあり、延喜式には十一郡の名が見
え、十一郡を九十郷に分つ旨が記してある。また「文草」巻四にある「懺悔会作」中に
は「帰依す一万三千仏、哀愍す二十八万人」とあり、当時の讃岐は一郷平均三千人の人
口で、人口密度の高い国であったことも知られている。
金毘羅参詣名所図絵に拠ると、この祈願で「晴天忽ちかき曇り、雷四方に雲を飛ばし、
光天地に充ち満ちて、大雨頻りに降りしかば・・・・・・万民大いに悦び、手の舞ひ足の踏む
ところを知らず、菅公の御徳を賞し勇みけるとぞ。此時の吉例なりとて、今に至るまで
毎年七月廿五日には、城山の神へ手向けるとて、滝宮の竜燈院にて踊あり。」とある。
なお、国司としての業績としては、この雨乞い以外に記録はないとされている。
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