77b 菅家文草
 
 − 讃岐守時代 − 
 
〈路遇白頭翁〉
 
路上白頭の爺さんに遭った。
頭は雪みたいなのに、面には紅を刺している。
「年は九十八じゃ、
女房もなければ子もない、全くの独り者。
南山の麓の小さなあばら舎ヤで、
百姓もせず、商売もせず、大自然の中で悠々自適。
小舎の中の財産と云えば柏櫃カシビツが一つと、
櫃の中の竹の弁当箱位のものでさ」
怪訝に思って私は訊いた。
「爺さんの紅みたいな顔色はどんな方術によってか。
妻子もおらぬ、財産もないと云うに、解せぬこと。
身体の具合、気の持ちよう、詳しく話して呉れぬか」
爺さん杖を捨てて、馬前にお辞儀し、
「はい、事の次第をお話申し上げましょう。
貞観の末、元慶の初めときたら、
政治は無慈悲、掟オキテは偏頗、
旱ヒデリ、虫害で不作だとて、免税の上申はなさらず、
疫病でばたばた死んでも、お救いはなく、
讃州四万余戸は荒れ放題、
十一県に炊煙の立ち昇る家とても無い有様で御座りました。
 
折も折、お偉い国司様が見えました。
安アン様と申すお方、
(今の野州の介スケ安部興行のこと)
夜昼に馬を走らせて国中を御視察なさる、
噂を聞いて他国に逃げていた者も帰って来る。
遍き施しに病人も元気を取り戻しました。。
官民の対立は解けて、国人は心から役人を敬い、
一家中が揃って平和に暮らせるようになりました。
 
更に保ホウ様と仰る国司が見えました。
(今の伊予守藤原保昌のこと)
寝たまま聴かれてもお裁きは早くて、国内に悪事は絶え、
春には殊更に春色を求めて他行せずとも、国内には至る処に春色溢れ、
秋には別に稔り具合を見て歩かずとも、国内は至る処黄金コガネの波、
お天道様が二つ、袴が五着、いい生活クラシが出来ると百姓は謳歌しまする。
黍キビは房々、稲は二股、豊年万作じゃと、会う人毎に喜びの挨拶をしまする。
この爺は、幸いに安様保様に巡り合わせ、
妻子もなく生業ナリワイもないが、何の不安もありません。
隣組の者が温々と着せて呉れまするし、
近所近辺の人がたらふく食べさせて呉れまする。
楽しいばかりで、不安なんか御座りません。
心は平安、体力は増すばかり、
白髪の増えるのも覚えません。
自然、血色が良いので御座りましょう」
 
私は爺さんの物語を聞き、
爺さんを見送ってからも考えた。
安部氏は私の兄貴分に当たるし、
保則氏は父のように可愛がって下さった方である。
既に、この父と兄の遺愛がある、
父兄善政の後を受けて、立派に治めたいものだ。
しかし、父兄の善政をそのまま真似るのは無理だ。
明月春風も時に遭わねば、賞メでられぬように、
安部氏の奔波を学ぶには、我が身は気怠く、
保則氏の臥聴に従うには、我が身は若い。
それに、昔と今とでは政治のやり方も変わるもの、
私は、努めて巡視する暇には、詩を詠もうと思う。
 
 「二天五袴」とは、天の外にも一つの天の恵みに相当する恩人があり、五着の袴を持
つのは仁政のお蔭であるとの意。
 「多黍両岐」とは、後漢書に見える名地方官張堪の故事から来る。
 「五保」とは、令義解に「凡そ戸は皆五家相保マモれ」とあり、従って保の五つ集まっ
た町内会みたいなもの。
 「兄義・父慈」とは詳らかにしないが、安部興行は儒臣として立った人だから、その面
での先輩格か、又は役所で上席に居たことのある人かと想像され、また藤原保則は、道
真が民部少輔時代の民部大輔であったし、年も二十の距たりがあるので、親父さんと呼
ぶのであろう。
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