73 菅家文草〈早春陪右丞相東斎、同賦東風粧梅〉
 
                参考:太宰府天満宮文化研究所発行「菅家の文華」
 
〈早春陪右丞相東斎、同賦東風粧梅〉 − 早春右丞相の東斎に陪ハベりて、同じく「東風
            梅を粧はしむ」を賦す
春風便逐問頭生     春風、便スナワち逐ひて頭生トウセイを問ふ
為翫梅粧繞樹迎     為に梅粧バイショウを翫モテアソび、樹を繞メグりて迎ふ
偸得誰家香剤麝     誰が家の香剤の麝ジャをか偸ヌスみ得たる
送将何処粉楼瓊     何れの処の粉楼の瓊タマをか送将オクれる
先吹煖火頻温熨     先づ煖火を吹きて頻りに温め熨ノす
更作霜刀且剪成     更に霜刀を作モチひて且シバラく剪キりて成る
裂素誰容労少女     素シラギヌを裂きて誰か容ユルさむ、少女を労せしむるを
占巣莫怪妬初鴬     巣を占む怪しむ莫れ、初鴬ショオウを妬むことを
繁華太早千般色     繁華太ハナハだ早し、千般の色
号令猶閑五日程     号令猶ほ閑シズカなり、五日程バカリ
好是銀塩多結蕊     好し是れ、銀塩多く蕊シンを結ぶ
応縁丞相欲和羹     応マサに丞相の羹アツモノを和せんと欲するに縁ヨるべし
 
春風が近付き、「最初に生まれた娘コ(開いた花)はどれかな」と訊く。
梅は、躰を一杯花で飾って春風君を迎える。
春風の香ぐわしさ、何処の家から麝香を盗み出したのかしら。
何処の彩楼から白玉を運んで、梅の枝にくっ付けたのかしら。
春風はその体温で蕾ツボミを綻ホコロびさせ、
鋭利な刀で形のいい花弁の衣を拵コシラえて着せてやる。
その白絹の衣裳は、少女に皹アカギレさせて縫わしたものではない。
手塩に掛けたこの娘コを鴬が独り占めにしようとするのを、妬くのも当たり前でしょう。
千紫万紅の春には未だ早い。
春風殿も一挙に季節を早めさせることは出来ぬ。
花の蕊ズイの、真っ白な塩かと間違えられるのは、大臣閣下が天下を塩梅アンバイして治め
んとなさるからであろう。
 
 「頭生」は初生児の俗語、「梅粧」は婦人の額の上に梅花を貼り付ける化粧法、「号
令」は「後漢書に「風は天の号令、人に教ふるゆえんなり」とある。
 「羹を和す」は、吸物を塩などの調味料で味付けすることから、転じて天下を上手く
治める意とする。
 
 
〈博士難〉  −  博士難ハカセナン
  古調   −  古調
吾家非左将     吾が家は左将に非ず
儒学代帰耕     儒学、帰耕キコウに代ふ
皇考位三品     皇考、位は三品サンポン
慈父職公卿     慈父、職は公卿コウケイ
已知稽古刀     已に知りぬ、稽古の刀
当施子孫栄     当マサに施ウツすべし、子孫の栄
我挙秀才日     我の秀才に挙げられし日
箕裘(裘の衣の代わりに皮)欲勤成 箕裘(裘の衣の代わりに皮)キキュウ欲勤を成せり
我為博士歳     我の博士と為りし歳
堂構幸経営     堂構、幸ひに経営せり
万人皆競賀     万人皆競ひて賀せしに
慈父独相驚     慈父、独り相驚く
相驚何以故     相驚く、何を以ての故ぞ
日悲汝孤恂(恂冠+子) 日く「汝の孤恂(恂冠+子)コケイなるを悲しむ
博士官非賎     博士は官賎しきに非ず
博士禄非軽     博士は禄軽きに非ず
吾先経此職     吾、先に此の職を経ヘ
慎之畏人情     慎みて人の情を畏れたり」と
始自聞慈誨     始め慈誨ジカイを聞きてより
履氷不安行     氷を履みて安行せざりき
四年有朝議     四年、朝議あり
令我授諸生     我をして諸生に授けしむ
南面纔三日     南面して纔ワズかに三日
耳聞誹謗声     耳に誹謗ヒボウの声を聞けり
今年修挙牒     今年、挙牒キョチョウを修シュウするや
取捨甚分明     取捨、甚だ分明なりき
無才先捨者     才無くして先に捨てられたる者
讒口訴虚名     讒口ザンコウ、虚名を訴ふ
教授我無失     教授、我れ失なく
選挙我有平     選挙、我れ平なるあり
誠哉慈父令     誠なる哉、慈父の令オシエ
誡我於未萌     我を未萌ミボウに誡イマシむ
 
我が菅家は武将にあらず、
儒学を以って禄を食ハんできた家柄、
祖父清公は従三位に叙せられ、
父是善は公卿に列せられたが、
これと云うも学問のお蔭だった。
私も子孫の栄光のために励まねばと覚悟した。
十八才、文章生の省試に合格した日、
どうやら家業を継げる自身を得、
三十二才、文章博士になった年には、
紀伝道の講堂たる文章院も再建された。
多くの人から賀詞を頂いたが、
父だけは案じた。
何のために案じたかとなれば、
「兄弟もない独りぼっちのお前が不憫だ。
博士の官は賎しくない、
禄だって相当なもの。
父がこの職に就任した時には、
随分と世間の思惑オモワクに気を遣ったものだ」
父の教訓を聞いてからと云うもの、
薄氷を踏む思いで慎重を期して来た。
元慶四年には、朝議の決定で、
大学寮で講義を命ぜられたが、
開講して三日目には、
早ハヤ悪評を聞いた。
今年の文章生の考証の判定は、
公明正大であったに拘わらず、
落第と判定された無才の連中は、
実ミもない悪評を立てた。
私は教授にも過失なく、
合否判定にも公平だったのだがこの始末だ。
父の訓えに外れはなかった。
私を事前に戒めて下さったのだ。
 
 「箕裘(裘の衣の代わりに皮)」(また「箕裘」とも)とは、弓師の子はまず柔らか
な柳の枝を曲げて箕ミを作ることを学び、鍛冶の子はまず柔らかな獣皮を縫って皮袋を作
ることを学び、次第に難しい本業に馴れて行くと云うことから、父祖の業を受け継ぐこ
と。
 「挙牒」は文章生を試験し、合格者を文章得業生に推薦する文書。
 
 誹謗は相次ぐ。同年(元慶六年)夏の末、藤納言(大納言藤原冬緒のことか)を悪し
様に言う作者不明の詩が流布された。藤納言はこの詩の出来映えが非凡なところから、
文章博士道真の匿名詩であろうと疑い、世人もこれに同じ、道真を官界から抹殺しよう
とする動きが見えた。藤氏の大物の怒りに触れては破滅である。道真は苦境に立つ。い
っそ出家しようかとまで思い詰める。
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